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原発事故後の福島で住民と共に歩む医師・坪倉正治さん

編集長インタビュー

坪倉正治さん(3)医者なんてやりたくない 頭でっかちの秀才を変えた現場

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坪倉正治さん(3)医者なんてやりたくない 頭でっかちの秀才を変えた現場

「医学生時代は医者の仕事をやりたくなかった」と話す坪倉さん

 今でこそ、原発事故被災地の浜通り(福島県沿岸部)で、住民の真っただ中に飛び込んで診療に検査に当たっている坪倉さんだが、実は東京大学の医学生だった頃、「医者なんてやりたくない」と考えていた。

 「人と接する仕事をしたいと思っていたので、医療自体には興味があったのですが、医学部6年のぎりぎりまで、『医者としては働きたくない』と思っていました。僕らが学生だった2000年以降は、東京女子医大の医療事故や福島県立大野病院の産婦人科医逮捕事件が次々に起き、医療不信が高まった頃。病院実習の際には先輩医師からは、二言目には『こんなことをしたら訴えられるぞ』と言われ、1日に何回もその言葉が耳に入るんです。インフォームド・コンセント(医師の十分な説明と患者の同意)がねじ曲がって捉えられていた頃でした。患者さんに対してすごく防御的になっていたし、大学病院の先輩医師の目が輝いていなくて、自分の思い描いていた医師像とかけ離れていた。そんな状況なら、全体を見て医療がより良くなるための仕事、医療政策を考えていく仕事に就きたいと思い、厚生労働省の医系技官(医師免許を持つ官僚)になるとか、製薬企業とかコンサルタント会社に入るとか、医療ベンチャーを起業するのもありかなと思っていました」

 大学1、2年生の頃は、六法の勉強もしていた。司法試験も何度か受けた。

 「医学と法学や経済学は言語体系が全く違うので、そういう世界も理解しておきたいなと思ったんです。刑法ならこう考えるとか、民法ならこうだとか、ミクロ経済、マクロ経済はこういう見方をするとか。医学に偏らない教養を幅広く身に付けることに興味がありました、といえば聞こえは良いのですが、もしかしたら現状の医療に違和感を感じて、抜け出そうともがいていたのかもしれません。主に医療裁判をやっている裁判官に会いに行ったり、医学部の学祭で企画長を務めて、医療過誤とか医療経済とか、医療に関わる社会現象を考察して発表したりしていました。悪い言い方をすれば、先輩の医師が『つらい』とか『面白くない』と言っている臨床(患者を診療すること)に興味が持てなくなっていたんですよね」

 「医師国家試験は受けるけれども、臨床研修はする必要はない。病院の中じゃなくてすぐに社会に出て、医療を変えるような政策に関わる仕事をしたい」と色々な場所の面接にまわった。外資系のコンサルタント会社なども受験したが、最終面接で結局落ちた。進路に迷い、周囲の人に相談していく中で、灘高、東大出身の先輩政治家に会いに行き、強烈に怒られたことが、医師の道に進むきっかけになる。

 「その人に、『地道な仕事や地に足をつけた仕事をちゃんとやったことがなくて、下積みをちゃんと積めないようなヤツは、全体を 俯瞰(ふかん) して見たり、全体の方針を決めるような仕事ができるようには絶対にならん!』と一喝されました。それでハッとさせられたところがあって、臨床研修しようと心を入れ替えたんです」

 それが、最終学年である6年生の夏。卒業後に研修医として修業する病院を決める時期はとっくに過ぎていて、どの病院も見学さえしていない。「しっかり診療を学ぶなら良い病院があるぞ」と教えてもらった、千葉県鴨川市の亀田総合病院にぎりぎり滑り込んだ。

 医者になるならば、診療科は血液内科にしようと最初から決めていた。

 「医者ならば、がんの治療をやるべきだと思っていました。がんは治らない人も多いです。その時に抗がん剤を使ったり、緩和医療をチームで行ったり、どうやってより良く生きられるかを考えたりする勉強をしないといけないと思っていたんです」

先輩医師から教えられた患者を診る喜び

 とりあえず研修は終えようと入った亀田総合病院。そこで出会った医師たちと仕事をして初めて、坪倉さんは、医師という仕事の素晴らしさに目覚める。

 「亀田で出会った医療者たちは、患者のおじいさん、おばあさんと丁寧に話し合いながら、一つ一つ治療を進めていったり、治療の中にも日々の小さな喜びを感じていたり。それまで臨床をバカにしていた自分を、すごく反省しました。患者さんを診ることのすばらしさや、やりがいをすごく教えてもらった。365日24時間、ひたすら働くのも全く苦にならなかったし、集中治療室で患者さんの横にずっと座って、尿の量をチェックしたり付き添ったりするのもすごく大事な仕事だと思えました。自然と血液内科の仕事を続けようと思いました。彼らとの出会いがなければ、今の自分はありません」

 3、4年目は帝京大ちば総合医療センター、5年目は血液内科で実績のある都立駒込病院の血液内科に進み、血液がんの患者で最も大変な治療となる骨髄移植について学んだ。

 「血液内科では、若い患者さんが何とかして生きたいと願うのに、どうにもしてあげられないという場面に多く出会います。若い子が亡くなるし、壮絶な終わり方もある。つらくて精神的にやっていられないと思うこともありました。両親どころか祖父母まで生きている若い患者さんに治療法がないことを伝え、どういうふうに良い最期を迎えてもらうかを考えて、チームでサポートする。患者さんの前で泣いてしまって、上司の医師に怒られたこともありました。忙しくて、あまりに病院から出ることができず、不整脈が出て上司に帰宅させられたりと毎日必死でしたが、正直、自分は患者さんや家族と対話ができる医師になれたんだと勝手に思っていました。けれども、その根拠のない自信は、震災後に福島に通うようになって、崩れ去りました。自分は医師として色々なことを全然知らなかった、何もわかっていなかったということを、後に福島の現場で学ばせてもらうことになるんです。もちろん、今もわかっているわけでは決してないのですけれど」

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岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部(警視庁、厚生労働省担当)、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)に移り、6月から編集長に就任。医療部ではがんや感染症、遺伝子医療、セクシュアリティーなどを担当。父親ら親しい人の病気、死をきっかけに、大学の卒業論文でホスピスを1年間フィールドワークし、医療記者を志した。

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