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原発事故後の福島で住民と共に歩む医師・坪倉正治さん

編集長インタビュー

坪倉正治さん(3)医者なんてやりたくない 頭でっかちの秀才を変えた現場

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働きながら学んだ論文を書く意味

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 それほど忙しい毎日を過ごしながら、診療が終わると、坪倉さんは東大医科学研究所に夜な夜な通っていた。医学生時代から、論文の書き方の指導を受けていた上昌広さんの研究室で学ぶためだ。

 「試験管の実験には興味がなかったのですが、この患者さんに対してどのような治療を行うべきかを考え、そして症例検討をまとめるのは面白いと思っていました。いわゆる論文を書くという作業です。論文の書き方は手術と同じでハウツー本を読んでもものにならず、先輩から手取り足取り指導を受けながら実際に書いて学ぶしかない。筋道を立てて考えることがすごく面白かったし、患者さんを診る臨床医が、論文を書くことが最新の研究成果を勉強し考えを整理するトレーニングとしても最良であると思っていました。つまり、論文が書けるということは、現在わかっていないことを明らかにすること。つまり、まだ解明されていないこと全てがわかっていないといけないので、その病気に関して一生懸命調べ尽くす必要があるのです。そのうえで、この患者さんの事例が科学的にどんな意味があるのかを考え抜いて、何か新しくわかったことがないかを必死に探す。そういう過程は、回り回って最終的に患者さんのためにもなり、これからの診療に役立ちます。そういうことを徹底的に教えてもらいました」

 駒込病院で午後8時頃、診療が終わり、東大医科研の研究室に行って、午前3時頃まで論文を書き、それから4時過ぎに下宿に帰って、早朝からまた病院で診療をする。

 「きつかったですが、やりがいもありました。あの時に、自分で勉強する (すべ) をすべて教えてもらった気がします。それは、福島でも生かされていると感じています」

 そして、福島に通い始めて1年が過ぎ、住民の検査データがまとまり始めた頃、世界にこの災害のデータを発信しなければと、普段の診療や検査をこなしながら、論文を書いた。2012年8月、南相馬市立総合病院の内部 被曝(ひばく) 検査の結果を一流学術誌「JAMA(米国医師会雑誌)」に出したのが福島の活動で第1号の論文だ。放射性セシウムを検出していないのは大人で62%、子供で84%という結果。検出した人も高い値ではない。チェルノブイリの原発事故と異なり、被曝はかなり低く抑えられているということを世界に知らしめた。

 「世界に対して論文で公式なデータを発表することで、福島の人が置かれた状況や問題点、今後の対策などを世界中の専門家が議論できるようになる。この論文の場合は、原子物理学者の早野龍五先生のおかげで、世界保健機関のスタッフとも共有し、福島の現状を議論することができました。こうしたことは、浜通りを初めとする福島の住民の方のためになるはずですから、その後も積極的に論文を書いていこうと思いました」

 そして現在、震災直後から浜通りの住民を診療してきて感じてきたことを、データで明らかにした論文を作成している。南相馬市の住民の健診や被曝検査のデータを組み合わせて分析すると、放射線被曝の影響でがんになって命を落とす危険性より、糖尿病の影響でがんになり命を落とす危険性の方が数十倍も高いだろうという推計だ。

 「南相馬市だと、年代によりますがこの6年で5~6%、避難区域内だとそれより高くて10%ぐらい、震災前に比べて糖尿病が増えています。震災直後に支援に入った時から、住民の命を奪ってしまうのは直接的な放射線被曝より、むしろ社会変化による生活習慣病だと直感していましたが、それをデータで裏付けた形になります。ただ、難しいのは放射線の直接の影響は薄いわけですが、原発事故で仮設住宅に入って生活環境が変わったり、人とのつながりが薄れたりしたことは健康に強く影響しています。それは間接的には放射線の問題とも言えます。この結果から言いたいのは、放射線が関係ないということではなく、冷静にデータを見て住民の健康を守る対策を考えるなら、本体は生活習慣病だということ。こういう分析を保健師さんら地域の医療者に伝え、対策を打つべき方向性を共有し予算をつけていくことが必要だということです」

回り回って理想としていた仕事に

 坪倉さんは、今では相馬市、南相馬市、飯舘村、川内村の放射線関係の対策委員となっている。医学生時代はあれほどいやがっていた医療の最前線に飛び込み、現場から学んだことをデータにまとめ、それをもとに政策提言をしていく。いつの間にか、「医者になりたくない」と言っていた医学生時代に理想としていた仕事をしている自分がいた。

 「目の前の患者や地域の人と必死に関わってきたつもりが、結局データをまとめ、論文を発表し、地域を良くするためにはどういう対策を立てればいいのかという全体に関わる仕事になっていきました。医療だけではなく、教育や食べ物など生活全体を考えるようになりました。これだけ苦しんでいる人がたくさんいて、つらい思いをしている人がたくさんいる。そして立ち上がろうとしている人がいる。この現状を後に残すことは医療者としての義務です。そして、この地で様々な医療問題に取り組むことは、日本の将来の医療問題への対策の先取りになっています。すべてつながってきたのだなと思います」

 (続く)

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岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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