私のマラソン道
健康・ダイエット・エクササイズ
スピード追わず、無理のないペースで
東京本社読者センター 榊原 伸 専任次長
きっかけは、かみサン
走り始めは2005年12月。当時、妻がジョギングをしており、2人の娘も誘って近所で行われた翌年1月のロードレース(10キロ)にエントリーしたことがきっかけだった。私一人だけ荷物番をするのも、と思って「じゃ、俺も」と、安易に申し込んだことが始まりだ。昔から、短距離は苦手だったが、長距離はそれほど苦手でもなかったので、「まあ、かみサンには勝てるのでは」と考えてしまった。1か月あれば何とかなると高をくくって走り始めた。
最初は500メートルで息が上がり、即座に「目標をかみサン」から「完走」に下げた。2週間ほどでなんとか10キロを走れるようになり、ちょっと調子に乗ったのが運の尽き。すぐに膝を痛めてしまった。
10日ほど練習を休んでレースに挑戦したものの膝の痛みはひかず、激痛に苦しみながら走り、ゴールタイムは53分台。妻には9分の差をつけられていた。
「もう、こんなこと誰がやるか」と思ったが、足を引きずりながら走った初レースにしては、参加者の半分より少し遅い程度の順位。「ちゃんと練習すれば、それなりのタイムを出せるのでは」と、1か月ほど休養したのち練習を再開した。その年の秋には、15キロのレースで、なんとか妻にも勝てるようになり、06年11月のつくばマラソンで、初マラソンに挑戦した。30キロ以降は半分歩くようなスピードになり、目標の3時間30分は切れなかったが、39分台でゴールできた。
通勤ラン・帰宅ランで成績上げる
その後は、通勤時に家から途中の駅まで10キロ弱を走る「通勤ラン」や、その逆の「帰宅ラン」で月間200キロほどの練習量を維持。翌年の2007年3月の佐倉朝日健康マラソンで3時間20分を切るなど、徐々にタイムを上げていくことができた。さらに、所属部署が変わり、ラッシュを避けて通勤できるようになったことでランがやりやすくなり、1キロを4分台で走り、月間300キロペースで練習できるようになった。09年6月には、「サロマ湖100キロウルトラマラソン」を、最後は歩きながらも10時間30分余りで完走、49歳で迎えた10年、毎年1月に茨城・ひたちなか市で開催される「勝田全国マラソン」では3時間8分台で走り、「サブスリー(フルマラソンを3時間以内で走破すること)も夢ではない」と思えるところまで記録を伸ばすことができた。
タイム短縮の高い壁
しかし、記録更新もそこまで。綿密な計画を立て、それに沿って練習を進めていく計画性に欠ける性格が災いし、やみくもに月間走行距離だけにとらわれた練習しかできずに、そこからタイムは伸びない。「あと8分縮めるためには、1キロあたり15秒ほどのタイム短縮が必要」と考え始めたら、とてつもなく高い壁が立ちふさがっているように思えてきてしまった。
そこから後は、勤務体系が変わったこともあり、練習量の減少→タイムの悪化→モチベーションの低下と負のスパイラルに陥り、フルマラソンの自己ワースト記録を次々と更新、4時間を切れないこともあり、2012年からはレースへのエントリーもやめてしまった。
同僚の練習に付き合い、走る勘を戻す
それでも惰性で毎月50キロほど走り続けていたが、2014年に出向先で職場の同僚から、「走り方を教えてほしい」(教えるほどの技術も理論もなかったが)と頼まれたことをきっかけに、練習に付き合い始めた。初心者と一緒なので、1キロ7、8分ぐらいでゆっくり走る。それほど長距離は走らないのでLSD(長い距離をゆっくり走るトレーニング)にもならないが、それなりに走る勘は戻ってきた。15年シーズンは、フルマラソンを計5回、2週間の間隔で走ったこともあったが、ほぼ3時間40分ほどのタイムで完走することができるようになった。ただし、スピードを追求するのは難しい。3時間半狙いで走ったときは、終盤でよれよれになってしまった。50歳のころには楽に1時間半を切れたハーフマラソンも、56歳の現在は1時間40分がやっとになってしまった。
健康のためにも、無理のないペースで走る年齢になってきたようだ。これからは、全国の名所を走るマラソン行脚か、定年後にお遍路さんやスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路走破でも目指そうかと、思案しているところだ。
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