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原発事故後の福島で住民と共に歩む医師・坪倉正治さん

編集長インタビュー

坪倉正治さん(1)風化進みながらも残る不安 6年後の現状

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専門家でもない自分が……住民への説明役に

 そのうち、避難所で小さな子供を抱える母親たちから、「私は放射線を浴びたから死んでしまうのでしょうか?」「子供への影響は?」と相談されることが増えた。「放射線ってトータルの量が影響するから、長期的に大丈夫かどうかは正直わからないけれど、いきなりあなたたちが死ぬことはないと思う」と話していると、母親の1人から「避難所にいるお母さんたちを集めるから、放射線について話をしてくれない?」と頼まれた。

 「一般論でしゃべるならいいよと気軽に引き受けたのですが、それを聞きつけた市町村から住民説明会をしてくれと頼まれたんです。1か月で全地域30か所ぐらい回りました。当然、本や論文を読んで勉強はしましたが、データもあまりない中で何をどう伝えるか。『大丈夫』とは安易に言えないし、『危険だ』というのも微妙だし、結局、最初は『わからない』ということしか話せず、聞く側も不満を感じますよね。『うそつき野郎』『東電の回し者』とさんざん非難されました」

 そんな説明会を繰り返しているうちに、ストレスで頻繁にめまいが起こるようになった。病院で山菜そばを食べていたら、おかしな味がして味覚障害を起こしていることに気付く。自宅で寝ようとしても目を閉じることができず、顔面神経まひも発症していた。

 「最初は、もしかしたら放射線の影響で脳腫瘍でもできているのではないかと思って、すごく怖かったんです。放射線のデータ上そんなことはあるはずないと頭ではわかっているのに、採血して異常があったらどうしようと思いました。理屈ではない不安がわき上がるということを自分のこととして感じました」

 当時、発信されていたマスコミの情報は、現場でほとんど役に立たなかった。

 「地元の人が知りたいのは、『この水を飲んでも大丈夫か?』『この大根を食べても大丈夫か?』という具体的な生活の話。マスコミの情報は、原発がどうなっているかとか、100ミリシーベルトがどうかとかで、住民の不安には全く答えていませんでした。相手の話を聞いて求めているものを理解し、こちらが医学知識を元に、ある程度妥当な提案をするという、医師が一対一で行う診療のような情報提供がすごく求められていたのです」

手探りで内部被曝検査を開始

 説明会や健康診断を続けていくうちに、「やはり被曝量を測らないとダメだ」という声が上がり、放射性セシウムの内部被曝を測る機械「ホール・ボディー・カウンター(WBC)」が島根県のウラン鉱山から6月末、南相馬市立総合病院に届けられた。検査体制を組むために、東大医科研の協力を得て同意書を作り、7月初めには南相馬市で、自治体としては全国初の内部被曝検査が始まった。機械到着から検査開始までわずか10日ほど。中心となって準備を進めてきた坪倉さんが、検査結果の説明を担当することになった。

 「それまでの住民説明会の経験で、個別に話さないとダメだとわかっていたので、全員に検査をしながら説明をしました。1年先まで予約が埋まっていましたから、必死に進めていたのですが、それでも、『こんなのをやってないで、全員避難させろ!』とか『東京から来たやつが実験材料にしやがって』とつかみかかられることは、しょっちゅうでした」

 9月には検査精度の高い3台目のWBCも導入され、平均的な住民の内部被曝量はレントゲン数枚分ぐらいだとわかってきた。その頃から週刊誌が検査結果を取材し始めていたこともあり、「正しいデータをこちらから早く発表するべきだ」と市に働きかけた。

 「しかし、役所は公表による混乱を恐れ、及び腰でした。役所の幹部から『分をわきまえろ』と怒られたこともあります。それでも、『情報を正しくコントロールしようとするならば、こちらが先に手を打たなければダメです』と譲りませんでした。『被曝はしている、けれどもめちゃくちゃな量ではない』ということをセットで伝えないと、情報が一人歩きして危険だと思ったのです」

データを公表 批判が殺到

 結局、10月25日に「福島・南相馬の小中学生から少量セシウム」という見出しの小さな新聞記事が掲載された。しかし、意図した通りには伝わらず、多くの人は「やはり被曝していた!」というセンセーショナルな反応を示した。

 「何より (つら) かったのは、記事が載った日の朝、看護師に『福島の人が被曝したというレッテルを貼ってくれたわね』と言われたことです。ショックでした。良かれと思ってやったのに、まったくそうは受け止められなかった。落ち込みました」

 専門家でもない自分が試行錯誤しながらやっていることに、世間は反発の言葉を浴びせかける。特に、被災地から遠く離れた専門家の批判は激しかった。

 「放射線の専門家がどうして現地にいないんだ、とずっと思っていました。検査を始めた時も、『そのデータは本当に大丈夫なのか?』と外から批判だけする専門家が多かったのですが、『あなたたちがやらなくちゃならないことをやらないから、こんなに混乱しているんじゃないか』と憤りを覚えていました。安全性を強調する専門家の発信がたたかれて以降、多くの人は批判を恐れて口をつぐんだ印象があります。どんな分野でも、議論が分かれている時は黙っていて、風向きが変わったら勝ち馬に乗ろうと声を上げ始める人が出てくる。でも僕からすれば、『あなたはあの時やらなかったでしょ? 一番しんどいところを引き受けなかったでしょう?』と思いました。もちろん、必死で放射線の問題を発信していた専門家も多くいます。でも、最初から自分で正しいと考えることを発信しようという人は少なかったです」

 しかし、現場でそんな孤独な闘いをしている坪倉さんに、手を差し伸べる人が徐々に現れた。原発事故直後からツイッターで放射線情報を発信していた原子物理学者、早野龍五さんは、専門家としての助けを求めると、データの精査や検査機器の開発などに協力を惜しまなかった。

 2011年末のチェルノブイリ訪問で食べ物が内部被曝量の鍵を握るとわかって以降は、住民に具体的に気を付けるべきことを伝える局面に移った。地元の市民団体「ベテランママの会」代表の番場さち子さんは、若い母親や子供たちとの間をつなぎ、正しい情報を住民に届けるのに力を貸してくれた。

 「ここまで僕が福島の現場で生き残ってこられたのは、運としか言いようがない。困った時に必ず応援してくれる人が出てきてくれたからです。多くの皆さんに支えていただいたおかげです。感謝しかありません」

 そして、坪倉さんは今も福島に通い続けている。現在では子供のほぼ全員、大人の99%から放射性セシウムは検出されていない。6年の間、「自分はここで何をやっているのだろう」と仕事の意味を疑いかけた時、時折かけられる住民の言葉が心を支えてくれた。

 「赤ちゃんを抱いたお母さんが、『一度はおろそうと思っていたんだけど、先生の話を聞いて生まれたのがこの子なんですよ』と見せてくれたり、『ありがとう』って言ってもらったり。『やっていて良かったな』と思うこともたまにあって、『まあ、明日もやりますか』と心を保つことができたのだと思います。医者のやりがいなんて、そんなものですよ」

 (続く)

【略歴】坪倉正治(つぼくら・まさはる)

相馬中央病院常勤医、南相馬市立総合病院、ひらた中央病院非常勤医

 1982年、大阪市生まれ。2006年東京大学医学部卒。亀田総合病院研修医、帝京大ちば総合医療センター第三内科助手、都立駒込病院血液内科医員を経て、2011年4月、東京大学医科学研究所研究員。同月より、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故が重なった福島県浜通り(沿岸部)に医療支援のために入り、同年5月からは南相馬市立総合病院を拠点に内部被曝検査を開始。現在は毎週、東京と往復しながら、同病院、相馬中央病院、ひらた中央病院で診療を行い、放射線の計測や住民の健康相談、市町村の放射線対策などにも携わっている。

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岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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1件 のコメント

福島県への差別と偏見・いじめ

natsuki

坪倉さんのお話をはじめ、福島県内の新聞・報道はなかなか県外へ伝わりにくいものでした、今も実際そうで「応援して食べて死ね」と言われる始末です、どう...

坪倉さんのお話をはじめ、福島県内の新聞・報道はなかなか県外へ伝わりにくいものでした、今も実際そうで「応援して食べて死ね」と言われる始末です、どうか県外避難されている方にも、引っ越しされた方にも今の福島県を伝えてあげてください。
このお話を取り上げてくれて感謝いたします。

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