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木之下徹の認知症とともにより良く生きる

介護・シニア

「繰り返し尋ねる」

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「繰り返し尋ねる」

イラスト・名取幸美

 高橋康夫さん(仮名、78歳)とその息子さん、忠夫さん(40歳)が診察室にいる。

 私「あれっ、お母さんは?」

 康夫さん「いやあ、今日は行くの、いやだっていうんです」

 私「薬、大丈夫?」

 康夫さん「もう切れるんで、来ました」

 私「あっ、そうですか。最近、 (はた) から見ててイライラ感、いかがですか」

 康夫さん「このまえから、やっと気分的には落ち着いてるようです。なっ?」

 忠夫さん「そうですね。明るくなって、悪くないですよ」

 私「それじゃあ、あの薬、同じ量でいきましょう」

 康夫さん「先生、そういえば、なんども同じことを尋ねてくるのをどうしたらいいんでしょうか」

 私「はあ」

 康夫さん「毎回毎回それに付き合っていけばいいんでしょうか」

 私「はあ」

 忠夫さん「父を見ていると、ずっと母の言うことにしっかりと丁寧に付き合っているんです。ストレスがたまるんじゃないかと」

 康夫さん「まあ、私はどうでもいいですが、ね」

 私「はあ」

 康夫さん「食パン切って、それからどうしたらいいの?って尋ねてくるんです」

 私「はあ」

 康夫さん「『ちったあ、自分で考えなさい』といったほうがいいんでしょうかね。認知症が進まないためにも」

 私「んー」

 こういった話もこのシリーズで何度か取り上げてきました。しつこいですが、再度考えます。

 同じことを繰り返し尋ねる。その理由は?

 記憶力の低下である。

 たしかに、記憶力の低下があるのかもしれないけれども、それが本当の原因、あるいは、原因の大部分なのでしょうか。

 逆に、記憶力の低下があっても、同じことを繰り返し尋ねる、ことをしない人が大勢います。

 つまり、

 「同じことを繰り返し尋ねる」=「記憶力の低下がある」ほどには、強い結びつきはない、ということです。

 私は、その原因として、よく「不安」を取り上げます。

 記憶力の低下を自覚することはできません。なぜなら、「記憶がないこと」を振り返ることができないからです。痛みは、痛い自分を振り返ることできるから、リアルにそこに問題があるのだ、と認識できます。でも、記憶力の低下はちがう。

 しかし「私、記憶力の低下、あるんです」という訴えは実際にはあります。話を聞けばわかります。間接的に自分の記憶力の低下が判断できる。それは記憶できている。つまり、直接的ではないにせよ、自分に記憶力が低下していることを認識できることを意味しています。

 100%記憶できる能力は、人間にはありません。ある程度しか記憶できない。認知症になり記憶力が低下する。ある一定の記憶力からある程度低下している、ということです。逆にすべて記憶できない、ということもない。

 そのため認知症に伴う記憶力の低下、とは

 「私には物忘れがある」と、「私には物忘れがない」といった明瞭な区分で語れるものではない。程度の差でしかない。しかし、そのわずかな程度の差であっても、日常生活には、大変な不便が伴うようになります。人類の大勢の持つ、「ふつう」の記憶力の程度を前提に社会がつくられているので、そこから少しでもはずれると、大いなる不便が生じる。

 記憶できなかったことを振り返ることはできないけれど、

 「えっ、おかあさん、さっき言ったよ」のように、

 ちょっと心に負担を生じるような周囲の言葉を覚えていたりする。そういった記憶の集積がある。さらには、しばしばメディアや専門家(私もそうなので、自戒の念を込めてですが、)などの、プロの意見としての「認知症の世界」が、別世界にあるかのように、しかも、悪い世界観で語られるような世界として、無意識に 喧伝(けんでん) される。

 「認知症になったらおしまい」

 「地域ぐるみで、認知症を早く発見しなくては」

 「 徘徊(はいかい) を食い止める」

 「脳を鍛えれば認知症にならない」

 「これを飲めば、認知症にならない」

 「認知症対策」

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 「陽性症状」

 「認知症になるくらいなら、がんのほうがまし」

 「多弁な認知症」

 「ニンチ」

 「認知症は治る」

 「認知症にならない予防法」

 そういう知識を与えたあなたも認知症になるにもかかわらず、世間では人ごととして認知症を語る。

 そういう知識の集積がある。いまの認知症にまつわる文化、とはそんなもん。

 間接的に記憶力の低下を自覚する自分と、世間の悪いイメージをもとにして、自ら集積した知識から見える自分が重なり合う。ここで不安を感じない人はいないでしょう。

 我慢できず、失敗を恐れ、なんども確認したくなる。地獄の苦しみに近いものがあるのかもしれません。

 ある人は、そういう自分を、あきらめもあるのかもしれないけれど、受け入れる。

 あるいは

 「世間はそう言ったけれど、そんなことはない」と高らかに宣言し、

 変化する自分を素直に受け入れるだけではなく、

 そのことを世間に示そうと、積極的な形で世間に向けて活動する人もいる。

 脱帽。

 人は、老い、死ぬ。

 その過程で、だれもが認知症になる可能性がある。

 しようがない場合もあるかもしれないし、おとなしくするような薬を使わざるを得ない現実があるかもしれない。

 でも、その前に、「まとわりつき」、「同じ質問をしつこく繰り返す」、あるいは「暴言」「暴力」「不穏」「興奮」「陽性症状」と短絡的に一括せずに、「なぜそうなのか」を立ち止まって考える機会があるとありがたい、と思います。

 高橋親子との対話で、私たちが、お互いにたどり着いたところ。

 目の前の「認知症の症状に対して……」ではなく、

 「ぼくらは常に変化している。その変化の中で暮らしをつくってきた。お互いに老いる2人も変化する。どう、その変化とよりよく付き合うのか。ひとところで同じ姿で同じ人はいない。要はどうより良く生きるか」

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kinohsita

木之下徹(きのした・とおる) のぞみメモリークリニック院長

 東大医学部保健学科卒業。同大学院博士課程中退。山梨医科大卒業。2001年、医療法人社団こだま会「こだまクリニック」(東京都品川区)を開院し認知症の人の在宅医療に15年間携わる。2014年、認知症の人たちがしたいことを手助けし実現させたいと、認知症外来「のぞみメモリ―クリニック」を開院。日本老年精神医学会、日本老年医学会、日本認知症ケア学会、日本糖尿病学会に所属。首都大学大学院客員教授も務める。ブログ「認知症、っていうけど」連載中 http://nozomi-mem.jp/

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