私のマラソン道
yomiDr.記事アーカイブ
けがをきっかけに、自分の体と向き合う
東京本社広告局営業推進室 草薙雄太
膝の痛み…半分歩いた東京マラソン
転機は2010年の東京マラソン。
陸上の経験はないものの、長距離の適性があったのか、さほど練習もせずフルマラソンを完走できていた私だったが、このレースでは20キロ手前から膝の痛みで走れなくなり、半分以上歩いてゴールした。多くの温かい声援がうれしかったが、何より自分が情けなかった。マラソンを甘く見た慢心だった。
この悔しさで、スイッチが入った。毎週末に走るようになり、フルが楽に感じられるかもと、その年の「四万十ウルトラマラソン」にエントリー。やはり膝の痛みで途中15キロほど歩いたが、鎮痛剤の助けで何とか100キロを制限時間内にゴールできた。
次は歩かず完走しよう、苦しくて維持できなかったペースを確実に刻みたい……。感じた思いと練習を繰り返し、やった分がそのままタイムに反映しだす。
毎月200キロを踏むシリアスランナーに
何でそこまで走るの?とよく聞かれる。
「ランニングは、日々老化現象を自覚する我々世代でも能力を伸ばせる数少ないスポーツ。世のおじさんがマラソンやゴルフにはまるのは、他人との競争ではなく、自分だけが知る自分との闘いが奥深いから。やればやっただけ結果が出る」と答えている。
今だけだから頑張ろうと自分を追い込む練習に結果がついてきた。12年の「つくばマラソン」でサブ3.5、翌13年には「別府大分毎日マラソン」に出走、以来この大会で毎年自己ベストを刻み、15年にサブスリーがかなった。この間大阪、神戸、北九州、奈良など各地にできた大会にも出て、ウルトラは「秋田内陸リゾートカップ100キロチャレンジマラソン」を何度か完走した。
今では土日合わせて40~50キロ、月に数回は平日の夜に走り、平均で月200キロの距離を踏む。ラン仲間や職場の同僚とは皇居やトラック練習のほか、夏合宿など郊外にも出かけ、すっかりライフスタイルになった。学生時代の友人にはシリアスランナーへの変貌ぶりに驚かれる。
5年ほど順調に来た成長記はここまで。私にも多くのランナーのように次の転機が来る。
体の歪みを知り、セルフケアに目覚める
2年前の春、ぬれた路面で滑って転倒、けがでひと月近く走れない経験を皮切りに、体のあちこちに少しずつ痛みが出始めた。昨秋にはハムストリングスを痛め、暮れにはつまずいて今度は、さらにふくらはぎまで痛める始末。つい先日(2017年1月22日)も朝、「サンスポ千葉マリンハーフマラソン」に参加しようと自宅を出たところで走ってみたら痛みが再発、あえなく引き返すなど、ここ数か月は思うように走れていない。
原因はこれまでの蓄積疲労や体の歪みに加え、走るスピードが速くなることで増す着地衝撃に脚がついていっていないようだ。
転倒がきっかけで接骨院を時々受診するようになった。故障箇所の治療やテーピングはもちろん、先生は時々「冷え」や「飲み過ぎ」を指摘し、痛みの部位と異なる箇所に施術する。
この東洋医学的見地は目からウロコの連続。これまで向き合うことがなかった自分の身体への関心が、痛みを取る目的と同じくらい高まった。疲れると必ず背中の片側に表れる張りや、足腰の痛みはいわば生活習慣“痛”。いつも同じ手や肩で荷物を持つ、同じ脚に体重をかけて立つ、脚を組む、着座姿勢の悪さ、足の着地位置。普段の癖の積み重ねが体の歪みを生み、痛みにつながっているのだ。
そこで朝はストレッチと気分転換を兼ねてヨガの太陽礼拝のポーズを始めた。普段は癖への意識とともに先生の薦めでセルフケアを取り入れている。青竹踏み、腰や臀部をテニスやラクロスのボールで圧迫、太ももやふくらはぎはローラーでコロコロ。さらにストレッチポールや筋膜リリースのローラーも導入した。筋肉や腱の動き、テーピングについての知識もついてきた。
いろいろ試しながらも完治しないため、焦りと葛藤は続いている。目標とするレースが迫ってくるため、痛みが引くと走ってまた痛めてしまう一進一退の繰り返し。
そんな時、市民ランナーの星、川内優輝選手が昨年12月の「福岡国際マラソン」に日本人トップでゴールして思わず涙した、故障に苦しんだエピソードや、箱根駅伝の選手らの怪我との闘いを知り大いに励まされている。
趣味が高じ、こうして自分の体と日々向き合えるのは幸せなこと、とポジティブに考え、これからも目標を持ってランニングとケアを続けていこうと思っている。
◇
草薙 雄太(くさなぎ・ゆうた)
【略歴】1993年入社。広告第二部、企画開発部、教育支援部、広告第三部などを経て現職。自己ベストはフルが2時間56分、100キロが9時間36分。レースや練習で心拍数計測を欠かさず、分析してレースに生かしている自称〝心拍マニア″。
【関連記事】