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[QOD 生と死を問う]死を語る(中)死に姿で知る「生きる」 青木新門さん

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子・孫へ最後の贈り物

[QOD 生と死を問う]死を語る(中)死に姿で知る「生きる」 青木新門さん

「生に執着せず、この世に『ありがとう』という気持ちを持って旅立ちたい」と語る青木さん(東京都千代田区で)=高橋美帆撮影

 葬儀の前に遺体を整える「納棺師」で、著書が映画「おくりびと」の基になった青木新門さんは、遺体を通して日本人の変化を感じてきた。「死に姿」から教えられることも多いという。(聞き手・大広悠子)

 長い間、私たちは死を忌むべきものとして、日常生活から切り離して隠し、見えないところに遠ざけてきました。だから本当の意味で、死の実感に乏しい。頭の中で想像しているだけなので、極端に美化したり、恐れたりするのでしょう。私は、その傾向に疑問を感じています。

 30歳代半ばで納棺師になり、3000近い遺体と接してきました。たまたま求人のあった葬儀社に入社したところ、死体に白衣を着せ、髪や顔を整えて納棺する仕事を任せられたのです。最初は遺体を扱うことを、後ろめたく感じていました。本来なら見たくない、見ないはずの死を受け止める仕事なんて汚らわしいと。親族から「一族の恥。辞めろ」と言われたこともあります。

 しかし、出会う遺体はみな、それぞれに美しかった。正確に言えば、死を通して、生きていることのすばらしさを教えてくれました。寿命が延びても、いつか必ず死ぬ。死から目をそらしては生きられない。ありのままの死に姿を見てきたことで、それに気付くことができました。

  ■自然に逆らわず

 いつの頃からか、ぶよぶよとした遺体が増えてきました。延命治療を受けてきた方に多いようです。私には、死を受け入れず、自然に逆らった結果のようにも感じられます。

 死期を悟って、死を受け入れたと思える人の遺体は、みな枯れ木のようで、そして柔らかな笑顔をしています。亡くなる直前まで自宅などそれぞれの居場所で、それまでと変わらぬ日々を過ごしてきた人の多くがそうだった気がします。体や心が死ぬ時を知り、食べ物や水分を取らなくなり、そして死ぬ。それが自然な姿なのではないか。

 今、そういう死に姿は少ない。医師は一分一秒でも長く生かすことを使命だと思っているし、家族は少しでも長く生きるのが重要とばかりに「がんばって」と繰り返す。本人が死について思うことや、気持ちは聞かない。生命維持に必要な機械のモニターばかり見つめ、死にゆく本人を見ていない。大切なことを見逃し、聞き逃してきたのです。

  ■死ぬ人の役目

 確かに健康で若々しい高齢者は増えました。しかし、いつまでも若い頃と同じように飛び続けられるわけがないから、着陸(=死)の準備は、50歳ぐらいで始めなければいけないと感じます。今後、亡くなる高齢者が激増する。私もその1人として、これから10年間、「どう死ぬか」に真剣に取り組むつもりです。

 ある中学生が、祖父の死の直前3日間を振り返ってこう書いています。「ドラマで人が死ぬときは大げさだと感じていましたが、亡くなっていくおじいさんのそばにいて涙が止まらず、いのちの本当の大切さがわかりました」

 私も、この祖父のような死に姿でありたい。若い人の死生観、人生観を揺さぶるような姿を見せ、子や孫の心を育てることが、われわれ高齢者の大事な役目であり、仕事なのではないでしょうか。

 それが超高齢社会の良いところであり、われわれができる、若い世代への贈り物だと思うのです。

  ◇あおき・しんもん  納棺師、作家。1937年、富山県生まれ。映画「おくりびと」の基になった「納棺夫日記」の著者。

病院での死が大半…「自宅で」希望と隔たり

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 1950年代初めは8割以上の人が自宅で亡くなっていた。その後、病院などの医療機関で亡くなる人が増え、2000年代には約8割を占めるまでになった。

 しかし、自宅での自然な最期を望む声は、今も根強い。内閣府が12年に55歳以上に行った調査では「自宅で最期を迎えたい」と回答した人が半数を超えている。

 国は24時間体制で往診する「在宅療養支援診療所」制度を設けるなど、自宅で終末期を過ごせる医療・介護体制の整備に力を入れている。

 ◎QOD=Quality of Death(Dying) 「死の質」の意味。

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