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木之下徹の認知症とともにより良く生きる

介護・シニア

優れた課長は、優れた部長になれるのか

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優れた課長は、優れた部長になれるのか

イラスト・名取幸美

 診察前に、ケアマネジャーからメモ書きが手渡されます。

 そして診察室に。

 私が診察室に入る前に、すでに6人の方々がそこに所狭しと座っています。

 一人住まいの鈴木孝男さん(仮名、79歳)。3回目の診察。

 孝男さんの家の近所に住む次女の田中康子さん(仮名)が口火を切ります。

 康子さん「私の作った食事を食べようとしないんです」

 私「そうなんですか」

 康子さん「仕事に行く前に、ちゃんとラップをかけて用意して、『これが昼ごはんだからね。忘れずに食べてね』って繰り返して言ってるんですよ。でも、私が会社から帰って見てみると、全く手をつけていないんです。ちゃんと食べてもらえるような、何か方法があるんですか?」

 私「いやあ」

 貴子さん(長女)「(隣に座っている康子さんを手で制するかのように)あんたがそういう言い方をするから、そうなるんじゃないの」

 私「まあね」

 すると、対面に座っている孝男さんの弟、鈴木靖さん(仮名、65歳)が間から。

 靖さん「どうも最近あちらこちらで、いろいろと世話をしている我々の悪口を言っているようなんです。どうしたらいいんでしょうか」

 私「そうなんですか」

 孝男さんは、ただ目を床に落としたまま、沈黙。「……」。

 さきほどのケアマネからもらって、手の中にあったメモ書きをそっと開く。メモには「先日、デイサービスで、他の利用者に手を上げるので、たとえば、薬などで調整できるものでしょうか」とあります。

 一人住まいの孝男さんのために、みんなで「支え合って」いる。ただただ、みんな一生懸命。敬服します。

 ところでこの話は、かなり 錯綜(さくそう) しています。なぜならご本人(鈴木孝男さん)とその同行者(長女、次女、姪、弟、ケアマネジャー)が同じ空間にいるのですから。その中でのやりとりです。それだけで各人のさまざまな心理が見えてきます。

 そのうちのほんの一部。

・おそらくデイサービス側から、「困った」という相談をケアマネは受けたのでしょう。目下の問題(「他の利用者に手を上げる」)を早急にどうにかしなくてはならない、と焦っている。

・心を尽くし世話をしているのに、その代償に「悪口を言われている」と憤る弟。

・黙っている父親のそばで、父親の失敗、について私に理解を求めるかのように訴える次女。

・その妹の態度に違和感を覚え、叱責する長女。

・肝心の本人は、周囲の人々が自分の話をしていることを十二分にわかりつつ、いたたまれない状況の最中、それをただ聞き、押し黙っている。

 短い対話でしたが、各人、それぞれの切り口でそれぞれの心理の動きがあります。だから、この話は複雑でかなり錯綜しているのです。全員が満足する着地点を探すには私の能力では足らない。認知症医療における典型的な問題です。医師としての私自身の能力の低さ。呪いたくなります。

 さて、ここでは印象的だった、長女の妹さんに対する忠告「そういう言い方をするから、そうなるんじゃないの」に着目します。

 まずは言葉の意味を考えます。「そういう言い方」が具体的に指しているのは、妹さんの言葉そのものなので、わかりやすい。

 一方、「そうなるんじゃないの」の「そうなる」とは、何を指すものなのか。瞬時にこの中身を理解できない。でも雰囲気はわかる。学校で習った、状況を示す「it」に近い感じ。言葉にならない。しかし、雰囲気はわかる。

 これを私は「文化」と呼びます。正確に言えば、今、生まれ () ずる「文化の源」なのかもしれませんが。目に見えず、表現できない状態からそれを言葉にしたり、絵や音などの手段を使ったりして、具象化したくなる。無から有を生む。人が好むところです。その具象の集積が、我々がよく見聞きする文化です。そういった意味で「そうなる」の内容は、まだ目に見えない、言葉にもならない状態。だから「文化の源」。

 日本や世界が抱える「認知症問題」。今述べたように「そうなる」と思わず考えてしまう。そういう想念が「認知症」を問題化させてしまう。その意味で、そういう想念が文化の発生場所になります。その人、個人の問題ではないところが、難しいところです。「そうなる」と思った瞬間から、自分一人では解決できない。

 個人個人は、それぞれが孝男さんのために、よかれと思うことを一生懸命にやっています。みんなで「支えている」のはたしか。しかし、ここまで錯綜しているところをみると、チームとしては機能していない(ここでは善悪について述べているのではないことに留意してください。この登場人物、誰も悪い人がいないどころか、誰もがいい人なので)。だから、支え「合う」形になりづらい。

 しばしばこの形での未来は、このままでは厳しい結果になります。私のわずかな経験の中ですら、見聞しています。

 以前の訪問診療先での話。7人の子供に恵まれた老夫婦がいました。みな近所に住んでいます。夫は脳梗塞後の後遺症で半身不随。妻は認知症になり、身の回りのことを体の不自由な夫に手伝ってもらっています。子供たちは交代で両親の家に立ち寄っていました。7人中末っ子1人だけ女の子。とはいえ50歳くらいでしたが。彼女は両親2人だけの生活に危機感を覚え、会社をやめてアルバイトに切り替えて、 甲斐甲斐(かいがい) しく両親の家に日々通いつめ、手伝いを始めました。周囲の6人の男の子たち、とはいえ60歳前後だったのですが、みな安心したせいか、ぴたっと誰も両親の住む家に行かなくなりました。

 1年もしないある日、その末っ子も両親の家に行かなくなりました。すべてを託され、疲れ切ったのでしょう。かといって親を平然と見捨てるわけにもいかない。結局、末っ子は探してもどこにいるのか、行方がわからなくなってしまいました。私もその後どうなったかを知りません。知っていることは結局、両親の生活がかえって立ち行かなくなり、両親とも施設に入所したことだけです。思い返すだけで胸が痛くなるような体験でした。

 人的資源があっても、周囲の人の「共通のよい思い」がないと暮らしが成り立たない。その「共通のよい思い」とは何か、どのようなものか。それを探ってみよう、というのが今回のテーマです。

 そこで思考実験をします。

 近未来のとある会社。

 タイヤ課の課長は優秀で、性能の高いタイヤを作ることができます。ちゃんとコストをかければ、世界一。雪道OK。山道OK。砂漠OK。絶対の実績と誇りがある。それだけに、廊下でタバコを吸っているエンジン課長、内装課長に対して「お前らがしっかりしていないからだ。もっといい車は作れる。ちゃんと仕事しろ」と横から、 (げき) を飛ばす。

 クルマ部の部長は今、営業部長と会議。最近、廉価な自動運転車がはやり始めている。とくに大都市向け。雪は降らない。アスファルトがないところがない。都会は盆地で、山道ナシ。そこでのユーザーがコアターゲット。

 後日、 (くだん) の課長に部長から指示が。

 クルマ部長 (いわ) く「安くていいから。お前の能力を使って、そこそこ、いいタイヤを提供してくれ」

 タイヤ課長は落ち込みます。「そこそこで妥協なんてしたくない。最高にカネをかけて、最高のタイヤを作りたい。自分の力はこんな会社では発揮できない」と思い、耐え難く別の会社に転職。

 タイヤ課長「俺がいたから、今までいい車ができたのに。俺にありがたみを感じないような会社はもうダメだ。俺がいなくなれば会社は心底困るだろう。でもタイヤを軽視したのは会社自身だからしようがない。気の毒だけれど俺のせいじゃない。俺ならどこのクルマ会社だって採用してくれるだろう」

 辞表を受け取ったクルマ部長は「まあ、しようがいない」と残念がります。たしかに前任者ほどタイヤ作りができるやつはいない。でも運良く会社には別の、人柄がよく、和を尊び、「自分のことよりまず他人」といつも考えるような、そこそこ優秀な社員がいました。

 結局、現実は、クルマ部長はその人を課長にして、以前よりかえっていいクルマが作れるようになりました。一方、元タイヤ課長もタイヤ会社に就職して、よい待遇にありつけました。不思議にも誰も損をしない。世の中のオチ。だいたいそんなところ。

 ここで言いたかったのは、次の話。株式会社であれば法人の目的は営利の追求。事業を通じて社会に貢献すること。会社の営みの中で、その中のひとつの局面で秀でているのは、会社にとってはありがたい特性。しかし、それがすべてではない。自分の部署だけの主張をゴリ押しされても、会社としては閉口するのみ。会社全体のパフォーマンスが低下する。かえって会社全体の足を引っ張る結果にもなってしまう。一方、個別具体の能力が高ければ高いほど、その人に対する周りの期待も、自身の自己評価も高まる。最後には本人も周囲の人も、こんなはずではない、と出口のない迷路に迷い込む。美点が欠点になる瞬間。

 周囲は意外にも、あなた個人の具体的な能力を過小評価しがち。なぜなら、上司になればなるほど、会社と社会との関係性について、より全体を見て己の考えを示していかなければならないから。しばしば部下の個別具体の能力は素材のひとつにしかならなくなり、全員で発揮できる最高の力とは何か、「社員全員の最大の幸福とは何か」という命題を突きつけられる。その瞬間、個別具体のひとつの能力は、 数多(あまた) あるうちのひとつになってしまう。本人にとっては絶対的な能力であっても、会社全体から見れば相対的な能力になる。

 この絶対的な能力に拘泥すれば、当の本人はどんどん追いつめられる。このギャップをどう埋めていくのか。どう立ち居振る舞えばよいのか。クルマ部長の今回の判断は、タイヤ課長にとって厳しい。タイヤ課長がその状況をどう乗り越え、さらには自身の、世界一のタイヤを作る能力がどう高められ、自己実現を通じて世の中により貢献できるようになるのか。

 このタイヤ課長の問題と、孝男さん一家、プラス、ケアマネジャーの抱えている問題が同じように思えてなりません。そして、よくある答えとしては、局所から全体を 俯瞰(ふかん) するように、ということなのでしょうが。

 しかし、より本質的な答えがあるように思うのです。おそらくお互いの人間関係にしか、この問題解決の糸口がない。

 課長であっても、いったんは保身や自己主張をやめる。自分のことを捨て去り、会社の利益、部長や同僚の利益だけを我がこととして考える。すると、この状況は驚くほど好転するはずです。好転しなければ、まだ自分のことを考えているということです。相手が悪いのではない。また、たとえ相手が悪いとしても、相手を変えることができない。今から変えることができるのは自分です。

 そもそも最初から、誰も「優秀なタイヤ課長をいじめよう」なんて考えてなんかいない。仮に今いじめられているのであれば、過去のタイヤ課長の考えや態度、雰囲気が原因。能力一本で人生をかけて勝負できる人なんていない。すべては人間関係によって、自分が暮らすことができ、会社が存続する。自身の能力がより高められるのか、より卑しめられるのかは、すべて自身を取り囲む人間関係によって決まる。

 よい関係を結ぶのであれば、その人に対してよい想念を持たなければならない。今の 喧嘩(けんか)() めたければ、自分の 面子(メンツ) 、自分の都合、保身、自己主張を捨て去り、そのケンカ相手によい想念を持ち、よい働きかけをすることです。1回や2回そうしただけでは、相手はなんにも変わりません。何回も () まず (ゆる) まず、そうすることでしか道は (ひら) けません。

 鈴木孝男さんとその周囲の人々と話し合って感じたことです。そうでなければ認知症新時代は乗り切れないように思うのです。

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kinohsita

木之下徹(きのした・とおる) のぞみメモリークリニック院長

 東大医学部保健学科卒業。同大学院博士課程中退。山梨医科大卒業。2001年、医療法人社団こだま会「こだまクリニック」(東京都品川区)を開院し認知症の人の在宅医療に15年間携わる。2014年、認知症の人たちがしたいことを手助けし実現させたいと、認知症外来「のぞみメモリ―クリニック」を開院。日本老年精神医学会、日本老年医学会、日本認知症ケア学会、日本糖尿病学会に所属。首都大学大学院客員教授も務める。ブログ「認知症、っていうけど」連載中 http://nozomi-mem.jp/

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