精神科医・松本俊彦のこころ研究所
医療・健康・介護のコラム
相模原事件――危険な人物との共生は可能か
退院後の訪問支援
それでは、退院後の訪問支援はどうでしょうか。
少し考える方向を変えて、同じ措置要件でも「他害」ではなく、「自傷」の方に目を向けてみましょう。
自殺予防に関して興味深い研究があります(Motto & Bostrom, Psychiatric Service, 2001)。重篤なうつ病など自殺リスクの高い状態のために入院治療を受けた患者のうち、退院後の通院を拒絶した人をランダム(無作為)に二つのグループに分けます。一つのグループには退院後に何の連絡もせず、もう一つのグループには、2~4か月に1回、「その後、いかがお過ごしですか。よろしかったら連絡をください」という、ごく短い手紙を送ります。そして、両者のあいだで退院後1年以内の再企図率(再び自殺を企てる割合)や自殺死亡率を比較すると、後者のグループで再企図率や自殺死亡率が有意に(統計的に意味のあるレベルで)低かったのです。
この結果は、ちょっとした「おせっかい」が人の命を救う可能性を示唆しています。同様の報告は他にもあり、だからこそ、現在、わが国の各地で、保健師などによる自殺未遂者に対する訪問支援が行われるようになったのです。
いいかえれば、措置要件のうち、「自傷」に関しては、このような「おせっかい」が許容されているわけです。それなのに、なぜ「他害」の場合には「監視」とか「人権侵害」と批判されるのでしょうか。
実は、この疑問を先輩精神科医にぶつけたところ、「自殺予防は本人に利益があるが、他害防止には本人の利益がないからだ」と諭されてしまいました。しかし、本当にそうでしょうか。「死ぬ以外、この苦痛から解放される手立てはない」と思い込んでいる人にとって、自殺を止めようと訪問してくる保健師ほど迷惑な存在はないはずです。
それでもなお、保健師が訪問するのはなぜか。それは、「自殺を考える人は何らかの困難や苦痛を抱えていて、本当は死にたいのではなく、そうした問題を解決したいのではないか」と考えるからではないでしょうか。
精神保健的支援は一種の性善説に支えられています。罰の威嚇をもって人を変えるのが刑事司法の手法であるとすれば、精神保健は、「他害を企てる人もまた困難や苦痛を抱えていて、本当はそれを解決したいはずなのだ」という仮説のもと、その人の主観的苦痛に寄り添い、信頼関係を築くなかで変える手法を用います。
もちろん、あくまでも仮説です。ただ、私なりに根拠はあります。かつて精神鑑定で出会った重大事件の加害者の多くは、犯行前、深刻に孤立していました。そうした経験から、私は、患者の孤立を防ぐことは他害行為の防止にも資すると信じています。
共生社会の実現に向けて
私は決して、検証・検討チームが議論を尽くしたなどとは思っていません。たとえば、警察の対応に関する検証は不十分なままですし、「なぜ容疑者はあのような優生思想を抱くに至ったのか」という問題については、議論の端緒にさえつけませんでした。
そんななかで、ずっと気になっていることがあります。それは、「役に立たない障害者は生きる価値がない」という優生思想を抱く容疑者が、「自分をロレックス化する」ためにたびたび美容整形手術を受けていた、という事実です。
一般に誰かを激しく排除しようとする人は、その人自身が排除され、孤立する不安に脅えているものです。たとえば、低所得者層ほど生活保護受給者をバッシングし、いじめ加害者はしばしばクラスメートから排除される不安に脅えています。
その文脈でいえば、どうも彼は「ありのままの自分には生きる価値がない」と考えていた節があります。もしかすると彼は、生産性重視、成果主義、経済効率、自己責任論という、現代に流布する種々の言説に 曝 されるなかで、「自分は役に立たない人間ではないか」という疑念にとらわれ、排除の不安に脅えていたのかもしれません。
だとすれば、私たちの社会にはまだたくさんの「植松聖」予備軍がいるはずです。そして明らかなのは、そのような人に病名や罪名をつけて隔離し、共同体から排除したところで、事態は少しも解決しないということです。彼らはすぐに地域に戻ってきますし、そもそも、そのやり方では容疑者と同じ次元に立つことになります。
今のところ、私が思いつく解決策は一つだけ――それは、障害者と同様、危険な人物についても地域で孤立させずに、共生の可能性を模索することです。その第一歩として、私は、報告書に示された二つの方向性――患者が納得できる危機対応策を作り、患者の主観的苦痛に寄り添った「おせっかい」をすること――の実現に期待しています。
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