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木之下徹の認知症とともにより良く生きる

介護・シニア

他人のせいにする

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他人のせいにする

イラスト・名取幸美

 江藤隆さん(仮名、79歳)、妻の陽子さん(仮名、75歳)が診察室に。陽子さんは赤や黄色などの鮮やかな色地の洋服をまとい、髪は茶色に染めて、真っ赤な口紅。大きなイヤリング。一方、隆さんは、茶系統の地味な色のシャツとズボン。

 診察室に私が入ると、

 妻の陽子さん「あっ、先生、こんにちは。よろしくお願いします」

 私「こちらこそ、どうかよろしくお願いします」

 私は夫の隆さんに向き、

 「こんにちは。今日はよろしくお願いします」

 隆さんは無言で、無表情。深々頭を下げるばかり。

 陽子さんはその出来事を無視するかのように矢継ぎ早に、

 「この人ったら、何度も、同じこと聞くんです。ほんとに」

 「この病気って、どんどん進んじゃうのかしら。もう、この人ったら、やんなっちゃう」

 「この人ったら、物は出しっぱなしだし、かたづけやしない。私の仕事がどんどん増える」

 隣に座っている隆さんは、 虚空こくう を見つめ、無言。今の話。全く自分のことではないよう。目の前の大きなものを無視し、押し殺すかのよう。われ関せず端然と座っています。

 まだまだ続きます。

 「外にも行かないから、私、ずっと家にいなきゃなんない」

 「私にだって、外に行って、お稽古とかやらなければならないこと、たんとあるんだから」

 「こんなんじゃ、踊りにもいけない。やんなっちゃう。もぉー」

 そして、最後に、ピクリとも動かない夫が横に座っている中、ひとしきり話しつくした陽子さん

 「先生! どうにかしてくださいっ」

 このオチ。予測していたとはいえ、私、固まる。

 みなさんなら、なんと声をかけますか。誰に? 陽子さん? 隆さん?

 「同じ話を何度も聞いてくる」ことが問題のように思え、その原因は記憶障害。それだけでよいのでしょうか。この話の根っこにあるのは、別の問題だと思うのです。以前から何度か触れています(たとえば、「 認知症、ケンカの理由~異なる事実~ 」)。「単なる記憶障害が原因」などといった説明だけでは片付かないことは、ご賢察済みだとは思いますが。そのうらにある、不安などに基づく心理の過程だってあるわけです。

 でも、そういったことを洞察するには、疲れ切った妻にはきついだろうなあ、と共感してしまう私自身がいます。どうしても「その問題点は記憶障害にある」という視点から逃れられない。問題を解決しようと、あがけばあがくほど深みにはまってしまう。よくあります。すなわち、同じことを繰り返すのは、記憶障害以外の「強い」理由がある、ということ。逆に記憶障害とは、「同じことを繰り返す」上で本質的な理由ではありません。本質的ではない「ほかの理由」です。

 今日も診察で、認知症の本人が2人の娘たちに説明していました。

 長田泰子さん(仮名、80歳)「私がね。同じことを何度も聞いてしまうのは、不安があるからなの」

 だれでも人間関係で苦しい時、そのせいでかえって、問題となっている本質的な部分に目がいかなくなってしまいます。平たく言えば、ほかの理由に目がいきがち。しかも、その理由に拘泥すれば、事態は悪化する。

 「私はまちがったことは言っていない」という強固な確信を双方が持っている。2人とも「筋は通した」と思っている。筋違いにもかかわらず。

  喧嘩けんか が深刻であれば、「私はまちがったことは言っていない」と 反芻はんすう しながら、深夜寝付けないでいる自分を見つけます。

 翌日、2人の様子を見た第三者が「仲良くやりなさい」といいます。

 しかし、「いいえ、私は間違っていません」と聞いてもいないことを答える。あるいは「いいえ、別に仲たがいなんかしていませんからっ」といって、「気分の悪い」問題を隠ぺいしてしまう。そんなあたりが「ふつう」でしょう。そして、たいてい第三者の「正しい」言い分なんて無視されます。

 ここで挙げられた理由は、その問題の本質ではない「ほかの理由」です。

 ひとはなぜ問題解決から遠ざかる「ほかの理由」ばかりを選び出すのでしょう。

 「ほかの理由」に こだわ り、その解決ばかりを考える。明日から、喧嘩した人と会って、うまくやっていけるのでしょうか。陽子さんにとっての新たな、明るい未来があるのでしょうか。

 この「ほかの理由」というのはくせものです。

 まず、どの「ほかの理由」も少なくとも、それを思いついた人にとっての、正しい理由だからです。ただし相手にとっての、正しい理由ではありません。

 我々は小さいころから、学校教育や家庭内のしつけによって、周囲の正しさを確認することが求められます。たとえば「その人の気持ちになってみなさい」「人の迷惑をまず考えなさい」など。周りの大人たちを納得させるのに、そういう態度と言動を身に付ける。たいてい、そんな過程を経て成長します。

 しかし、大人になります。幼いころは「純粋な正しさ」をもとめていたはずだった。世の中に出て、身も知らずの怖い大人に囲まれ、か弱い自分を守るために、いつの間にか自分の正しさを主張することが武器だと思い込み始めます。そういう大人同士で、「自分の正しさ」を確認し始めます。「お前のために、俺はこうやっているんだ!」というのはよく聞く、大人が他人に使うキレた時のセリフ。言われた本人にとっては、心のなかで「それは本当にあなたの本心か?」とつぶやいてしまうのだけれど。「お前のために、俺はこうやっているんだ!」と発した人間が、このセリフをいえば免罪符かのように、自分の主張を、自分の願いとともに、人におしつける。この言葉を発した本人も、自分を正当化するために、このセリフそのものを信じようとする。冷静になって胸に手をやって考えれば、この言葉を吐いた当の本人はそうでないことに気づくはず。「お前のために、俺はこうやっているんだ!」は本質的な理由ではない。「ほかの理由」です。

 2人の女性。あるきっかけに仲たがい。それぞれの家に帰り、近所の友達に報告。すると、即座にその友達がいいます。

 「あなたは間違っていない。間違っているのは彼女のほう」

 そう友達から言われ、あなたは

 「よかった。私は間違ってなんかいない。間違っているのはやっぱあっちよね」

 友達の一言。強く勇気づけられます。これで今日は気分良く寝られます。

 翌日、喧嘩相手の顔を見て、自分の正しさの前にひれ伏しているはず。と思いきや、なんにも変わっていない。「なんと厚顔無恥な」そんなふうに相手に対して思います。そう思わなければ、自分が正しいという理由がなくなってしまう。自分が正しい、となにがなんでも周りから言われたい。でも結局そう思い続けることは、2人の関係性を悪くするだけ。自分の正しさにこだわるあまり、本当の理由を自分ですら、わからなくなってしまう。自分が正しく思える、というのは「ほかの理由です」

 たとえまともで、正しいと思えるような言葉でも、そのニュアンス、タイミング次第でそこに悪意がこもっているかどうか、など相手は瞬間にして見抜く。喧嘩相手となるとどこまでも敏感なはず。そういうときには何を言っても過剰に悪意として受け止められる可能性すらあります。

 解決方法はただひとつ。自分の正しさを捨て、相手のことだけを考えるしかない。しかも1回や2回だけの優しい声かけだけは関係性を改善するには徒労に終わることでしょう。「こっちがせっかく折れてやったのに」と、最初はとても嫌な気持ちにもなるかもしれない。しかし、これは自分だけの正しさにこだわった代償です。相手の正しさだけを考える。そしてずっと。いつまでも、そうするしかない。

 陽子さんのようなお話をされる方を目の前に、私は固まります。ご主人はことをあらたてず、観念の へそ を固めているかのよう。どのように伝えたらいいのだろうか。そもそも「伝える」ことでよいのだろうか。他にやり方があるのではないだろうか。これは私の宿題です。しかし、陽子さんの話を通じて、私を含めてみなさんにも新たな宿題を提示できたようにも思います。小さな自分の保身のための正しさ。過去における自分の正しさ。そんなもん、勇気をもって捨てちゃいまいしょう。これからが大切。相手を尊重し、かけがえのない2人の関係性を育みましょう。

 ずいぶんと過ごしやすい世の中になるはず。そういうことを教えてくれる灯台が認知症を考える世界には とも っています。私も尽力します。陽子さん、がんばれ。隆さん、がんばれ。

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kinohsita

木之下徹(きのした・とおる) のぞみメモリークリニック院長

 東大医学部保健学科卒業。同大学院博士課程中退。山梨医科大卒業。2001年、医療法人社団こだま会「こだまクリニック」(東京都品川区)を開院し認知症の人の在宅医療に15年間携わる。2014年、認知症の人たちがしたいことを手助けし実現させたいと、認知症外来「のぞみメモリ―クリニック」を開院。日本老年精神医学会、日本老年医学会、日本認知症ケア学会、日本糖尿病学会に所属。首都大学大学院客員教授も務める。ブログ「認知症、っていうけど」連載中 http://nozomi-mem.jp/

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