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HIVと共に生きる不死身の活動家 長谷川博史さん

編集長インタビュー

長谷川博史さん(2)感染判明、雑誌創刊、人とのつながり

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「HIVは社会の病気」という言葉

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「『HIVは社会の病気』と言われて、自分だけを責める必要はないと気付いた」と話す長谷川さん

 当初の主治医の島田さんには、もう一つ、その後の生き方を決める重要な言葉をかけられたことがある。

 「長谷川君、HIVはね、社会の病気でもあるんだよ」

 「HIVやエイズは今でも悪所通いの人間がかかる性病で、自己責任だというイメージが世の中にある。当然、僕も性感染症というものはそういうものだというスティグマ(負の 烙印(らくいん) )を背負っていたんです。だけど島田先生は、『HIVは社会全体で取り組まないといけない問題だし、医療スタッフみんなや社会で君のことを支えていかなければならないのがエイズ診療なんだよ』と言ってくれた。それで、自分だけを責める必要はないんだと気付かせてくれたのです」

 「HIVは社会の病気」という気づきは、長谷川さんの心を外に向けさせていった。感染発覚から1年近くたち、そろそろ仕事を始めないといけないと考えていた時、なじみのゲイバーのママから、「ゲイ雑誌を作りたいのだけど、手伝ってくれない?」と声がかかる。

 「当時は、複数のゲイバーの経営者がゲイビデオのブランドを作って販売していたんですが、無断複製のビデオが出回り、その広告を掲載していた老舗ゲイ雑誌に対抗するために新雑誌を創刊することになったのです。でも、編集経験のあるのは僕ともう1人だけで、1か月半後に宣伝用に配る号を出すというのだから 無茶(むちゃ) な話。僕も一晩で何本も原稿を書き、広告から営業から走り回って何とか間に合わせたんです」

 こうして、一時はマツコ・デラックスさんも編集スタッフとして働き、一時代を築いた伝説のゲイ雑誌『バディ』が1993年に創刊した。長谷川さんは、ゲイであることに誇りの持てるページ作り、という方針を掲げた。

 「僕はなるべく、中に出てくる人に目隠しをしたくなかった。顔を見せて出てくれる人にちゃんと語ってもらいたかった。高校生の時、僕が平凡パンチでゲイの男性のインタビュー記事を読んで田舎から出てこようと思ったように、ちゃんと服を着て、社会で生活しているゲイのモデルを出したいと思ったんです。さんざんいろいろな人に断られたのですが、ゲイバーのママが出てくれて、バディを始めることができました」

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出版社に勤めていた頃の長谷川さん。ヨット部に入り、今よりかなり太っていた

 そして長谷川さんは、HIVのことも雑誌で取り上げたいと考えた。

 「経営者からは、最初に『エイズとリブ(ゲイ解放運動)は 御法度(ごはっと) よ』と、くぎを刺されていました。でも、数号出して安定してきたところで、僕がいないとこの雑誌は作れないとわかっていたから、強気で言ったんです。『僕、HIV持っているんだよね。こういう人間がこういう本をやっているんだから、エイズの記事がないのって不自然じゃない? 1ページもらうから、ほかの取締役にも言っといて』って」

 あぜんとする経営者を尻目に、次の号から「ポジティブネットワーク」と題したHIVの連載を開始した。ペンネームは、当時通院していた東大医科研の所在地である白金台が大好き、とかけて、「白金大輔」。初回は、通院で知り合った仲間や、バディの通信欄で呼びかけて集まった陽性者ら約10人と、自宅で開いたお花見パーティーの様子を紹介した。

 「HIV陽性者はこうやって楽しんでいるんだよというポジティブなイメージを外に伝えたかった。狭い (うち) だけど、ちょうど目黒川のほとりに住んでいて、川沿いの桜が満開だったんです。その時、何を話したか覚えていないのですが、みんな、たまっているものがあったんだね。よくしゃべったことだけは覚えている」

 その時の思い出を、先に同じ病気で旅立っていった仲間の思い出と共に、長谷川さんは自身の半生をつづった著書『熊夫人の告白』(ポット出版)で、「さくらさくら/センチメンタルジャーニー」という詩に書き留めている。

(前略)

さくら、さくら、さくら

青い空に白い花びらは流れて僕は (いま) だ旅の途中にいる

一九九二年、 爛漫(らんまん) の春

僕が通い始めた病院の庭には桜の大木が立っていて

咲き誇る満開の花の下で僕はひたすら旅立ちの日を待っていた

一九九三年、炎天下

最後まで病室で恋人に寄り添って看病したのはあなただったのに

最後の別れを言うこともままならず

あなたから奪うように 亡骸(なきがら) を持ち去った家族に恨み言も言わず

ため息を付いてまた歩き出したS君が恋人を追うように逝った

(中略)

一九九七年、つるべ落としの夕暮れ

最後まで家族に病気のことをうち明けられず悩んでいて

寂しくなるといつも夜中に電話をかけてきた甘ったれのKが旅立った

君と仲間 (たち) が僕ン家に初めて集まったのは目黒川の桜が満開の時だった

二〇〇二年、11年目の爛漫の春

満開の桜の木の下で僕はこうして生きている

一日二三錠のカプセルで体を薬漬けにしながらも

一年三六五日副作用の 倦怠(けんたい) 感と闘いながらも

こうして巡る季節の輪の中で桜吹雪の青空を見上げて旅を続けている

(中略)

さくら、さくら、さくら

花吹雪の中

青い空に花びらは流れ

みんなどこかへ散っていったけれど

さくら、さくら、さくら

花吹雪の中

青い空に花びらは流れ

みんなここで 微笑(ほほ) んでいる

(後略)        (『熊夫人の告白』より)

 「お花見の時にいた主要メンバー3人のうち2人が、去年のエイズデーのイベントに来てくれて、僕がこの詩を読んだんだ。2人とも泣いてたね」

 まだ治療も不安定で、世間のHIVに対する風当たりも強い時代、仲間同士のつながりが、不安な心を支えていた。

 (続く)

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編集長インタビュー201505岩永_顔120px

岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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