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HIVと共に生きる不死身の活動家 長谷川博史さん

編集長インタビュー

長谷川博史さん(2)感染判明、雑誌創刊、人とのつながり

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長谷川博史さん(2)感染判明、雑誌創刊、人とのつながり

HIV感染がわかった時は、楽天的な性格の長谷川さんも頭が真っ白になった

 30代半ばで出版社を辞め、フリーランスの編集者として働き始めた。1991年、当時、日本でもエイズパニックが広がり始めていたのに不安を感じていた長谷川さんは、新しいパートナーとつきあい始めたのをきっかけにHIVの検査を受けた。

 後日、結果を聞きに行くと、対応した医師は、検査結果の書かれた紙に初めて目を通した様子だった。「うん、梅毒は大丈夫、 淋病(りんびょう) も大丈夫。うっ、ちょっと待って下さい……」。急に顔色を変えて、診察室から出て行った。机の上に残された検査結果をのぞいてみると、HIVの項目に「+(プラス、陽性)」の文字が書かれていた。

 「僕はガーンとなって、頭が真っ白になって何も考えられなくなりました。少したって先生が戻ってきて、『HIVがプラスでした。予約を入れましたので、この病院に行って下さい』と東大医科学研究所病院の紹介状を渡されました。この病気についての何の説明もなく、自分がどんな状態にあるのかも全くわかりませんでした」

 ショックを受けて、予約の日も病院に行かなかった。誰にも言えず、死ぬことばかりを考えて、首をつるのにちょうど良さそうな木を探し、街中をさまよった。

 「感染していると言われただけで、自分がエイズを発症しているかどうかもわからないのに、テレビや雑誌で見たエイズの末期患者のイメージしか頭の中に思い浮かばない。やせ衰えた患者の姿を自分に重ねていました」

 しばらく仕事もできなくなり、治療を勧める恋人の言葉にも耳をふさいだ。触れ合いも拒否し続けて恋人は去った。病院を受診したのは約1か月たった頃だった。

 初めて受診した東大医科研病院で当時診察していたのは、感染症の権威、島田 (かおる) さん。1時間近く時間を取って、病気の特徴や現在の体の状態を説明し、長谷川さんの質問にすべて答えてくれた。そして、初受診の最後に言われた言葉が長谷川さんの心を開かせた。

 「セックスだって諦める必要はないさ。相手のことをちゃんと考えてすればね」

 長谷川さんはこの時の気持ちを、こう振り返る。

 「それは救われた。HIVに感染したら、もうセックスとは無縁の状態になったと思いこんでいて、それが自分にとっては最も恐れていたことだから。感染症の専門家だから、そういう科学的なことが言えたのだと思います。後に、血液製剤で感染した血友病の仲間に聞いたのですが、血友病の主治医たちの中には、患者に諦めさせようとした人もいるんです。自分たちの使った血液製剤で感染させたのに、感染を広げないように患者会の中に『童貞保存会』というのを作ったという、ひどい話も聞きました」

 それでも、半年余りうつうつと過ごしていたある日、わけもなく性欲が湧き出した。マスターベーションをして、射精をしたその瞬間は、それまで頭を支配していた死の恐怖が消えた。

 「その瞬間、『ああ、俺は生きている!』って本当に実感したんです。そこから少しずつ生きる欲が出始めた。つくづく自分は射精に支配されている人生を送ってきているんです。東京に出てきたのだって、要はそのためだったんだから」

 しかし、長谷川さんがセックスを再開するにはそれから1年半ほどかかった。アメリカのHIV情報を集めるのに協力してくれた男性が、「別にHIVだからって、したっていいんじゃない?」と話すのを聞いて、誘ってみた。「僕、HIV持っているんだよね」と打ち明けたが、部屋にそのまま上がってくれたので、コンドームを使って、久しぶりに抱き合った。涙が出た。

 「感染してもできたって、感激しました。僕の人生にとって、すごく大事なものだから。本当はみんなにとっても大事なんでしょうけれども、パートナーシップだとか夫婦とか結婚という形に押し込められて、その大事さがわからなくなっているんじゃないかな。久々にして、自分を取り戻した気持ちになりましたね」

 主治医には、「医学的には、コンドームをすれば相手に感染させることはない」と言われたが、長谷川さんはその後、しばらくは必ず相手にHIV陽性であることを伝えていた。

 「基本的にコンドームを使っても、相手に対してわずかでも失敗のリスクがあることを伝えるのがフェアだと思いました。当時、ゲイコミュニティーの中にHIV陽性者がいるという危険可能性がどれほど知られていたかということもあるのですが、最初から伝えておけばリスクは共有できる。10年ぐらいたった後は、陽性者はいっぱいいることは知れ渡ったはずだから、状況によっては言わなくなりましたけれどもね。もちろん、感染が判明してから25年、一度もコンドーム無しのセックスはしていません」

治療と副作用

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HIV感染がわかって約1年後。糖尿病の進行で痩せ始めていた

 治療は、1992年の夏頃から、抗ウイルス薬「AZT」を飲み始めた。「死の病」として恐れられていたHIV、エイズにとって治療薬の登場は画期的な出来事だったが、しばらく飲み続けるとウイルスに耐性ができて効かなくなる問題があった。当時は、この「AZT」か「ddI」という「逆転写酵素阻害剤」しか選択肢がなかった。

 「僕はAZTを単独で飲む治療が半年で、次に飲んだddIが10か月で効かなくなり、『もうこれは死ぬしかない』とあきらめたんです。ところが主治医から『二つ効かなくなったけど、二つ混ぜて飲んだら効くかもしれないから両方飲んでみよう』と言われて飲んだら、3年効いた。幸い、副作用もあまり出なかったのです」

 その間、新しい種類の抗ウイルス薬「プロテアーゼ阻害剤」が1997年に使えるようになった。今も治療の基本となっている多剤併用療法が始まって治療成績が劇的に上がり、HIVは「死の病」から、「薬を飲み続ければ生きられる病」となった。

 「ところが最初に出てきたプロテアーゼ阻害剤は、尿管結石の副作用がひどくて、みんな死ぬような思いをしていたんですよ。でも死ぬ思いはするけれど、その薬のおかげで死なないから飲むしかない。副作用を防ぐためにみんな水を1日2、3リットル飲んでいたのですが、僕は前の薬が効いている限りは飛びつく必要はないと、ぎりぎりまで待ちました。そろそろもう効かなくなってきたというところで、副作用の少ないプロテアーゼ阻害薬が出てきて、一番苦しい薬は飲まずに済みました」

 

 その後20年で、様々な種類の抗ウイルス薬が開発された。多い時は20錠以上飲んでいたが、今では2種類の薬を朝3錠、夕3錠飲めば済んでいる。現時点ではウイルスを体から消す根治薬はないため、薬の飲み疲れに悩む患者も少なくないが、長谷川さんはそれは平気だった。

 「子供の頃から病弱でしたから薬は飲み慣れていて、今でも高血圧の薬と一緒に1回で飲み干せるんですよ。一番つらい副作用は見た目の変化。初期の薬の副作用なんです。外見の変化はHIVというレッテルを顔に貼られるようなものです。アメリカでもこれは問題になって、この副作用を避けるために、薬を飲まなかった人だっているんです」

 長谷川さんは、自分の飲んでいる薬をインタビューでも見せてくれたが、写真は撮らせてくれなかった。「周りにHIVであることを伏せて飲んでいる人が、ばれてしまったらまずいから」。陽性者であることを隠さないで生きている長谷川さんは、今もなお、HIVを隠して生活している患者が多いことについてどう感じているのだろう。

 「HIVやエイズをどう捉えるかについては、個人差があります。僕にとって大きかったのは、20代の頃からゲイであることを兄や友達に伝え、就職しても常に身近な人にはカミングアウトしてきたことです。ゲイであることをクローゼット(隠すこと)にしている人は、HIVに対してどうしてもネガティブな感情にならざるを得ないわけです。こんな言い方をしたら悪いけれど、ある意味、僕は親が早く死んでくれたこと、兄が理解してくれたこと、友達に恵まれたことが、HIVをネガティブに捉えないことに影響していると思っているし、そういう能天気な、楽天的な性格をくれたオヤジに感謝しています」

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編集長インタビュー201505岩永_顔120px

岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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