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木之下徹の認知症とともにより良く生きる

介護・シニア

みえないものの大切さ

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みえないものの大切さ

イラスト・名取幸美

 渡辺智さん(仮名、55歳)が仕事を休んで、母親の渡辺たか子さん(仮名、83歳)を連れて来院。診察で。

 私「はじめまして」

 いきなり、

 たか子さん「先生、本当にこの子には、ありがたいと思ってんです」

 私「ほー」

 たか子さん「もう、ありがたくて。今日だって。ねぇ。仕事を休んでくれたんです」

 もう、半泣きになりながら。

 私「ほー」

 たか子さん「もう、いつも感謝してるんです」

 もう、泣いてしまった。

 たか子さん「でね、本当にこの子には……」

 智さん「お母さん、もう、いいから」

 私のほうに振り向き、表情も変えず要点をさっと伝えます。

 智さん「で、ですね。最近どうも、もの忘れがひどい感じなんです。で、調べていただきたく、伺った次第で」

 私「あっ、わかりました。それでは早速ですが、まずは体の診察をさせてください」

 聴診器や打腱だけん器、あのトンカチのちいさいやつ、を取り出して、診察をはじめしました。

 聴診器を胸にあてた途端、たか子さんはビクッと。

 私「あっ、ごめんなさい。」

 聴診器は、冬は冷たい。びくっとされてから、思いだす。

 たか子さん「あっ、冷たいの、大丈夫ですよ」

 言い訳をいう私は申し訳なく思う。でもご配慮、ありがたい。

 私「息を吸っていただけますか」

 たか子さん、息吸わず。

 たか子さん「でね。もう、本当に子にお世話になってばかりで……」

 私「(心の中で、『ごめんなさい、話の途中で』)はい。今度、息すってそのまま少しだけとめていただけますか」

 たか子さん「はい。で、もう、どうしようもないんですね。ああ、なさけない……」

 私の心の中(あっ、息、吐いてる)

 私「(心の中で、『ごめんなさい、話の途中で』)すみません。これから腕とか足とか、これ(トンカチみたいなやつ)でたたきます」

 たか子さん「あっ、どうぞ」

 たか子さん「でね。本当に自分が情けないんです……」

 たか子さん「私って、認知症とかいうのでしょうかね。もう、だめなんでしょうか」

 体の診察に集中するふりをし、私は何といってよいのか、困り果てる。

◇◇◇

 また、別の方。

 高橋康夫さん(仮名、73歳、そして康夫さんを取り巻く以下の状況も個人を特定できないようにかなり変えています)が、妻の貞子さん(仮名73歳)と2人の子供たちとともに、診察室に。

 貞子さん「主人が、最近、もの忘れがひどくて」

 当院では、あらかじめ状況を聞き取っているので、この言葉、スタッフに伝えたもの。私は診察をする。その最中。ご主人は上機嫌。

 康夫さん「いやあ、ここはいいですね」

 私「いやいや、そんなことはないですよ。そもそも病院なんて、いやなところです」

 そして、これから受けていただく検査の説明をします。

 私「それでは、これから検査をします。今日はよろしくお付き合いください」

 康夫さん「はい。よろしくお願いします」

 1週間後、康夫さん一家は再度受診。

 私「検査の結果を詳しくお伝えします」

 康夫さん「あっ、よろしくお願いします」

 細かく説明。

 私「それでは今日は、最後に先ほど申し上げました、これからのご自身の認知機能の変化を知るための検査をさせてください。ADASと言われる検査です。よろしくお願いいたします」

 康夫さん「こちらこそ、よろしくお願いします」

 なかなか、よい雰囲気で診察終了。

 しばらくすると、奥さんの貞子さんから電話。康夫さんは有名なパン屋さんを一代で築き、貞子さんがホールを仕切ってきた。とある地域の名だたる店に。しかし、昨年より康夫さんの小さなミスが重なり、康夫さん自ら、「もう閉じよう」と。貞子さんはまだいける、と思いつつ、康夫さんに従ったとのこと。これまでは日々戦場のごとく駆けずり回っていたそうです。ここでゆっくりと温泉でも行きながら、余生を送ろうかと。妻の貞子さんもそう思ったのでしょう。貞子さん。「よし。そうしよう」

 しかし、それから後日。遅い朝、康夫さんが起きざまに「どうして仕事をしないのか」と言いだします。貞子さんは理由をとうとうと説明。話を聞いているうちに、怒りだして部屋に閉じこもってしまう。

 診療から数日たって、クリニックに電話が入ります。貞子さんからです。

 貞子さん「助けてください」

 貞子さん「今度の受診なんですが、『あんなクリニック、二度と行くか』と言うんです。どう説得しても、言うこと、聞かないんです。そしてコレコレシカジカ(先ほどの話)」

◇◇◇

 さて、お二方の話を書きました。たか子さんと康夫さん。

 最初に登場した、たか子さん。あれほど、息子さんの智さんに気を使っているように思えました。しかし、スタッフが検査をしながら、わかったことがあります。「日頃からあれこれ指摘する息子だ」とたか子さんが思っていて、辟易へきえきとしていること。あれほど繰り返し言葉にしていた息子さんへの感謝の気持ちはなんだったんだろう。それは、息子さんへのネガティブな気持ちが裏返ったものであったということです。しかしそれはあくまでも、たか子さんの今の認識。事実は闇の中。たか子さんがそう思っているということを、息子さん自身も知っている様子。だからそれだけ困惑。このたびの受診に至ったようです。

 2人に共通しているのは、診察室での会話だけではその本心が見えない、という点です。それを見抜けないとすれば、認知症医療を実践する医師としては失格です。ちなみに私は、たか子さんについてはあまりに不自然なので、言葉と認識のずれについてはある程度予測できました。

 康夫さんについては、すっかり気分よく診察を終えたものと勘違いしていました。私はできのよい医者ではない。そういう反省を毎回強いられます。在宅診療をよくしていた時(いまは月に数回)には、家庭内暴力や虐待が繰り広げられる場面を、よく目にしました。しかし、同居する家族には、それですら「伝わっていない感」が残るらしく、すさまじい様子を録画したビデオや録音を見せていただきました。私の理解が行き届いていない、と思われたのでしょう。外来だと、さらに困難が伴う。きっと在宅診療の時よりももっと「伝わっていない感」があるんだろうなあ。たしかに、外来では実際にそういう光景をじかに目にできません。話を聞き、雰囲気を察し、見えないものを想像するしかない。

 さて何が、たか子さんと康夫さんの身に降りかかったのか。その本質とは。それがなにか。これを考えざるを得ない。

 以前から私が、「周辺症状などない」と主張している理由ともつながります。暴言や暴力は存在しない。そういう行為があることを否定しているわけではありません。そういう行為を見つけて、「即!」、周辺症状と呼ぶなかれ、と言いたい。暴言暴力と「症状」のように言われがちだけれど、そうではなく、きちんとそれなりの理由がある行為なのだと言いたいのです。

 なぜ殴る、蹴る、怒鳴るのかがその場でわからないとしても、おそらく理由があるはずだと考える立場の表明でもあります。(嗜銀顆粒しぎんかりゅう性認知症などといったある特定の認知症原因疾患に伴って生じる脳の変化が「怒りやすさの直接の原因」となる「可能性」が専門家によって指摘されているようですが、その話についてはここではふれません)。

 さらに、周りの人が肝心のその理由がわからないから、殴る、蹴る、怒鳴るのが止まらない。逆にそれが一般的なのかもしれません。医療やケアの専門家であれば、もしかしてその理由を知る力が、役割のひとつかもしれません。理由がわかれば、人は、それを解決することから考えはじめます。すると、やるべきことが分かる。つまり、どうやっても止まらない。ということは、その理由がわからないのです。

 そんなとき、医療は困っている人にはやさしい。そんな理由なんか考えるより、まずは「周辺症状」や「陽性症状」としてしまえ。「それは病気のせい」なのだと、理由を考えることを棚上げする。そうすれば困っている人にとって、悩んでいる本質が、「病気のせい」となれば、解決できた気分になります。しかし、これは危険。そして薬漬けの温床となる見方でもあります(ところでそういう私自身も、おとなしくさせる薬を処方することがあるので、自戒しながら述べています)。もっと深刻なダメージがあります。「暴言暴力は、即、陽性症状」としてしまうことで、大切なものの見方が失われる、ということです。それはなにか。

 「どうして殴るんだよぉ」と理由を考えることは「認知症を抱える人」の「人」の部分で考えている、ということ。「なぜ、怒るんだろう」「なぜ、謝るんだろう」とかも。そういうこと、皆さんもその当事者になったり、周囲の人の立場になったりするでしょうが、日常ありますよね。

 一方で、周辺症状、陽性症状としてみるということは、「認知症を抱える人」の「認知症」の部分で考えている。「暴言という症状に対しては〇〇〇が効く」という発想になってしまう。その延長になるのが、たとえば次の話。ある専門医と称する医師の講演会。「こんなひどい人が、こういうふうに薬を使うと、ほらっ、笑顔が!これが専門医もできない本当の認知症医療なのです!」とビフォアー、アフターの顔写真を見せて、地域の医師やケアの専門職の人々に、まことしやかに話す。困っている人は大勢いおられるので、爽快感のある解決方法の提示。絶大なる人気を誇る講演です。すさまじい熱気。やはりハウツーはうける。華々しく、かっこいい。

 それに比べると私の話はわかりづらく、地味。「どうやればいいのですか?」の質問に対して「ルールなんてない」と答える始末。そういえば10年前、おとなしくさせる薬の使い方のハウツーをまとめて、華々しく登場。と思ったけれど、考えれば考えるほど袋小路に。むなしく挫折。しかし、副作用についてのハウツーは作れそう。だけれど色気はないし、あまり歓迎されないだろうな、と思う。この際だから告白すると、私、姿かたちも太く、カッコよさからは縁遠い。いじけて愚痴を重ねても話が進まない。

 これら一連の話。大切だったのは「見えないもの」への関心だったのです。たか子さんの不満や居心地の悪さ、康夫さんの不平。そして周辺症状とくくらない本当の「理由」。

 この話は、別に認知症とは限らない。人としてものごとを考える際のキモとも言えます。人間関係を言葉でどうにかしようなんて、無理。小さな人間関係ですら、独り善がりの正しさを主張されれば、されるほど、人は離れます。そのことを指摘してみる。すると即座に、独り善がりではない、それはお前のためなんだ、と主張するほうは力説し始めます。「それは、お前のためなんだ」という言葉が免罪符のごとく効果的だと思っての力説。よけい人は離れる。

 その場が、あるいはその人といると、気持ちがよい、とか、安心する、とか、なにかワクワクドキドキする、とか、そういう雰囲気に人はかれるものです。それだけで、きっと、その人は相手思いの人、自分のことよりも他人(ひと)のことを思うタイプなんだと思えます。

 認知症の話のつもりで書いているのですが、認知症から学ぶことは多い。今回の学び。結局、その人といると、気持ちがよい、とか、安心する、とか、なにかワクワクドキドキする、とか、そういう雰囲気を醸し出せる。そういう人になりたいなあ、と思った次第です。これから生きていく上での難事は、向こうのほうから避けていくことでしょう。

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kinohsita

木之下徹(きのした・とおる) のぞみメモリークリニック院長

 東大医学部保健学科卒業。同大学院博士課程中退。山梨医科大卒業。2001年、医療法人社団こだま会「こだまクリニック」(東京都品川区)を開院し認知症の人の在宅医療に15年間携わる。2014年、認知症の人たちがしたいことを手助けし実現させたいと、認知症外来「のぞみメモリ―クリニック」を開院。日本老年精神医学会、日本老年医学会、日本認知症ケア学会、日本糖尿病学会に所属。首都大学大学院客員教授も務める。ブログ「認知症、っていうけど」連載中 http://nozomi-mem.jp/

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