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HIVと共に生きる不死身の活動家 長谷川博史さん

編集長インタビュー

長谷川博史さん(1)自分探しの旅 迷い続けたセクシュアリティー

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長谷川博史さん(1)自分探しの旅 迷い続けたセクシュアリティー

人なつっこい笑顔で、老若男女問わず慕われる長谷川さん

 日本で HIV やエイズを語るには、この人なしでは始まらない。1992年に感染がわかった当初から、「恥ずかしい病気だと思われたくない」と実名や顔を公表しての講演活動を開始。自ら創刊に参加したゲイ雑誌でもHIV情報の発信を続け、陽性者のネットワークを築きながら、この病気に対する偏見や暗いイメージを軽やかに打ち壊してきた。12月1日は世界エイズデー。治療薬の進歩で「生きられる病」になっても、陽性者の生きづらさは残る。 NPO法人「日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス」 の創立者で、現在は理事を務める長谷川博史さん(64)に、ゲイというセクシュアリティーやHIVと向き合ってきた日々を語っていただいた。

 アジア最大のゲイタウンと言われる東京・新宿2丁目の雑居ビル3階。HIVの予防・啓発のために運営されているコミュニティーセンター「akta(アクタ)」に、長谷川さんは、電動車いすで現れた。右足は、昨年5月、糖尿病の合併症で切断し、義足になった。「普通、足切って、車いすの生活になったら落ち込むけれど、僕の場合は逆に一緒に () きものが落ちたんだよね」と笑う。HIV陽性を理由に人工透析クリニックの診療拒否に遭い、一時、死のうとまで思い詰めた人とは思えない笑顔だ。

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10歳の時に生まれ育った村で。病弱な子供で腎炎の治療で学校を休みがちだった

 その長谷川さんのルーツは、長崎県の島原半島にある。男子厨房に入らずといった昔ながらの男女観が色濃い半農半漁の小さな村で、2人兄弟の次男として生まれた。小さな頃から家庭科が得意で、おままごとでもやりたいのは「お母さん」役。しかし、自分の性的指向に気づくのはずいぶんと遅かった。

 「田舎に限らず、当時はある種の対幻想が世の中のスタンダードだったわけです。男の子と女の子が出会って恋に落ち、そこで性に目覚めて、恋愛して、結婚してといったライフストーリーしかモデルとしてなかったわけだから、自分がゲイだということにも気づかなかった。女の子に対して関心もないし、女の子からラブレターをもらっても面倒くせえとしか思えない自分は、きっと奥手なのだろうと思っていましたね」

 自分が男が好きな男なのだと自覚したのは、高校2年生の時。昼休みに校舎の裏山で、当時、仲の良かった同級生の手や耳たぶに触れながらおしゃべりしていると、それを見た同級生がはやし立てた。

 「おー、こいつらホモばい。いやーあんたたち、デキとっとね」

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自身がゲイだと気付いた高校2年生の時。落ち込むことはなく淡々と受け止めた

 「ホモ」という言葉の意味さえわからなかった長谷川さんは「ホモって何ね?」と素直に聞き返した。そこでからかい半分に教えられて、初めて自分の性的指向を理解した。不思議なことにそれを淡々と受け止め、特に恥ずかしいという思いも浮かばなかった。

 「うちは幸か不幸か、性に関して全く子供に教えてくれない家庭だったんです。だから逆に、同性愛に対して羞恥心はありませんでした。病弱な子供で、女の子とおままごとをするしかなかったからなのですが、性的な情報について男の子の悪ガキたちからのインプットもなかった。だから偏見もなく、そのまま受け止めただけでした。それまで自慰行為の時に思い浮かべる相手の顔はのっぺらぼうで性別がなかったのですが、それ以降は男性の姿が浮かぶようになったという変化があっただけでした」

 高校卒業後は、地元の国立大学を受け、建築家になることを考えていた。しかし、自身がゲイだと自覚した数か月後、兄が押し入れに隠していた雑誌「平凡パンチ」のある記事に衝撃を受け、進む方向をがらりと変えた。新宿2丁目に出入りするゲイの男性にインタビューした記事で、そこには角刈りのいかにも男性的な風貌の人が写っていた。

 「当時、同性愛者と一般的に言うと、丸山(美輪)明宏先生とかピーターさんとか女性的な姿の人しかモデルとしていなかったんです。小説を読んでも、少年愛で稚児さんを求める侍とか、男のジェンダー(性別役割)と女のジェンダーの組み合わせ。僕の場合は男と男の関係を求めるから、そういう人たちが自分と同じカテゴリーだとは思っていませんでした。それがその記事を読んで、カチャカチャカチャと歯車がかみ合わさった。『2丁目を目指して東京に行こう!』とあっさり進路を変更しました」

 「世の中の不幸な人を助けるために弁護士になりたいから、東京の法学部に行く」と親や兄を説得し、1浪して慶応大学の法学部に合格。すべては同性愛者が生きにくそうな田舎を抜け出し、2丁目に行くための言い訳だったが、それでも1年目は真面目に司法試験の勉強をした。ところが1年目に受けた文学の授業で聞いた、「安い映画館の入り口にいるのは、みんなホモだから気を付けろよ。とんでもないことをしているからな」という先生の軽口が、逆方向の好奇心をあおってしまう。

 「そんな天国みたいなところがあるんだと、衝撃を受けました。そんな場所があるなら行かなきゃって、授業が終わったとたん、その映画館に突っ走っていったわけです」

 何回か通ううちに、そこで出会った男性と初体験を済ませ、そこから性の冒険が始まった。上京してしばらくたち、当時流行中のオシャレも覚えるようになると、やはりオシャレでハンサムな男性たちから声をかけられるようになった。それでは物足りなくなり、自分は下町で出会った粗野な風貌の男性の方が興奮する、ということも大きな発見だった。

 その時の驚きを、長谷川さんは自身の半生をつづった著書『熊夫人の告白』(ポット出版)でこう表現している。

 それまで私がイイ男と考えておりましたのは自分が作り出したのではなくテレビや雑誌が作り上げた世間様の平均的なイイ男でしかなく、それを 鵜呑(うの) みにしていただけだったのでございます。(中略)そう、私は私であることにやっと目覚めたのでございます。(中略)危うく、私は大きな勘違いをしたまま、本当に私のイイ男と出会うことなく短い一生を終えることになりかねませんでした。(『熊夫人の告白』より)

 「人の性的なアイコン(理想像)って、ものすごく固定的に刷り込まれているんだなということに気づいたんです。それを実はみんな結構知らない。僕はHIVについて講演するようになってから、看護師さんたちに、『自分の一番セックスしたい男性を教えて下さい』と聞くと、みんな福山雅治やジャニーズ系のアイドルを挙げ、いくつかのステレオタイプに 収斂(しゅうれん) されていく。ところが、ゲイというのは、フケ専(中高年の男性が好み)があったり、外専(白人男性が好み)があったり、デブ専(太った男性が好み)があったり、性的な好みが多様なんです」

 それを知らない人たちが「ゲイはすべての男性に性的な関心を抱く」と誤解し、偏見まみれの言葉を投げつけてくることは日常茶飯事だ。

 「よくあるのは、ゲイであることをカミングアウトすると、自分にとってはどうでもいい男が尻を隠して、『俺、そういう趣味ないから』と逃げてみせる。そういう時、『あんたたちノンケ男(同性愛でない男性)の性的な好みは穴が一つしかない靴下のようなものだけど、僕たちは穴がいくつもあるけど、その穴がとても狭い手袋だからね』と言ってやりたい。僕たちは男だったら誰でもいいなんて思っていない。僕はその中でも特殊な好みにたどり着き、それから自分探しの旅を始めました」

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編集長インタビュー201505岩永_顔120px

岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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