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木之下徹の認知症とともにより良く生きる

yomiDr.記事アーカイブ

その「脳トレ」、どんな人生を生きるため?

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その「脳トレ」、どんな人生を生きるため?

イラスト・名取幸美

 私「いやあ、今日は一段と華やかな感じですね。この七宝焼きのブローチ、 素敵すてき

 ですね」

 山田美津子さん(77歳、仮名)「あら、いやだ。そんなことはないですよ」

 私「外は、すっかりと秋ですね。へー。ジャケット。栗色の色合いが落ち着いて、井の頭公園の風景にずいぶんと似合うでしょうね。なるほど。今日、これからどこかに行かれるのですか?」

 山田さん「いやあ。お上手。ここにきて。娘とどこかでお食事して。えーと、それから家に帰って主人の食事を作らなくては」

 勝田さん(薫さん45歳長女、仮名)「そうよね、お母さん。こうやって、ちゃんとおめかしして、外出するのが、認知症の進行を遅くするのよね」

 山田さん「私もそう思うの。認知症には。」

 私「うん。……まあ。」

 どうしても、こういう時、笑顔を作るけれど、間が空いてしまう。

 私「あっ、今日はなにを食べるんですか。今日なんか、公園のほとりはいい感じだろうな。ああ。僕もそういうところで、くつろいで、ゆっくり食事したいなあ」

 私は、この会話に悩まされる。続けます。別の人の会話。

 診察室に山城さん(80歳、仮名)とその奥さん(智子さん74歳、仮名)。

 私は山城さんに、 挨拶あいさつ

 私「こんにちは」

 山城さん「……」

 ただ、山城さんは深々と頭をさげる。

 山城さんの妻「いやあ、お父さん。先生に、ちゃんと毎日書いてあるの、見せてあげて」

 山城さん「えっ」

 奥さん「さっき、かばんの中に入れてたわよ。自分で探してみて」

 私「まあまあ、いいですよ」

 奥さん「いや。ちゃんと持ってきたんです。先生、見てもらえますか。お父さん、早く。ちゃんと出して」

 山城さんはどうにかカバンからノートを取り出しました。

 奥さんはそれをスッと取りあげ、私に向かって言いました。

 奥さん「先生。これ見ていただけます!」

 そこには、ビッシリと毎日の行動記録と三食の献立が。

 私「これはすごいなあ」

 奥さん「でしょ。褒めてやってもらえませんか。こうやって認知症の進みを遅くさせているんです。ねっ、お父さん」

 山城さん「ん。まあ」

 私「まあね。あっ、そういえば、山城さん。献立たくさん書いてありますね。どれが好きですか?」

◇◇◇

 2組の会話をご覧いただきました。

 この会話には誰も悪い人がいない。母親思いの子供だし、ご主人思いの妻。

 「美しい話じゃないか。」「どうして」「どこが」「なにが」

 そんな風に思う人もいるかもしれない。

 どこに違和感があるのか。

 ところで、認知症とともに生き、そして世界に向けて貴重な意見発信をしている佐藤雅彦さんが言いました。「認知症の偏見はふたつある。ひとつは、社会の偏見。もう一つは自分の中の偏見」(Masahiko Sato: Two stigmas: one in society and the other within myself. p15 )

 認知症になると周囲も本人も、「進行させない」をなによりも優先してしまいがち。それ、よくわかる。だからといって本当に日々の行動記録を書くと、あるいは外出して食事をすると、認知症は進まないのか(この表現は荒っぽいのでもう少し正確に。認知機能の低下の速度を遅くできるのか、ですね)。

 ちなみに、その真相については、私にはわからない。真実は誰にもわからない。なにせ確たる証拠がないから。ただ私なら「自分が実践するなら」を想像し、思わず「たぶんやらないな」と思ってしまう。現にそういう効果のある介入はいまのところ抗認知症薬しか、実際ないし……、と思うタイプ。

 ところで、

 私は、メタボの塊のような存在です。姿を見ればわかります。運動すれば血糖値は下がります。毎日やれば、きっと体形もスマートになるでしょう。先日靴に手が届きにくくなったので、さすがに柔軟体操を少しだけするようになりました。おかげで今、靴は自分で履けます。周りの人々が、色々と気を使ってくれて、たくさん食べてはいけない、などと忠告もされます。従います。でも食い気に負けて時々禁を破ります。  

 いつもそのせいで、命を縮めている感触はあります。だからすごく気にはしています。だからといって、四六時中、気にしたくないし、気にされたくない。外から健康づくり宣言とか健康経営、健康生活とかそれだけを声高にガンガン言われても、あまり心に響いてこない。そんな中、かえって開き直って不健康でも、堂々と楽しく暮らしたいとすら思ってしまう始末。歪んでいる私。

 でも「健康で長生きしてね」という言葉にはうれし涙が出る。気分は矛盾。気持ちが右往左往する原因。「手段」と「目的」がゴタ混ぜになっている。そんなことがあるように思うのです。健康は手段。目的は生きる価値の実現。よりよく生きること。当たり前のことです。

 「手段と目的」の視点でいえば、健康はお金や役職と同じ。なによりも「金が欲しーぃ」と思う瞬間がある。そしてそれが 上手うま くいって、たとえたくさん手に入れても、それだけで人は満足できるわけがない。人生のすべての時間をお金に執着しても疲れるだけ。健康と同じ話。いまあるお金で、無駄遣いを減らして、ときには温泉に行ったり、友達とうまいものを食べたり。そのことが良い暮らしにつながれば、それで十分なのでは。身の丈に合ったアプローチ。大切なのはその人をとりまく人間関係であり、その人の内面の充実。お金はそのための手段。そう思えば、健康もまた、そのための手段。

 効果的な運動や食事は健康になるのにとても有効。エビデンス(科学的根拠)も山ほどあります。実際にやってみれば、体は楽になるし、気分は晴れる。そういうふうに体が反応するのは、生命が誕生して以来獲得した性質。体と心には長い歴史があります。

 大切なのは、健康そのものではない。その健康な心身を使って、価値をもって人と つな がること。不健康でも、制限されるかもしれないけれど、できないことはない。

 さて、認知症。認知機能の低下を遅くする手立てがあればいいな、と私も思います。でも、決定的にエビデンス不足。さっきの健康の話ほどには、伝えるべき話がない。健康を保てればたしかに心臓の血管にも、脳の血管にもいいのだろう。でも「それ以上に、あれこれのサプリや日誌や脳トレに認知症に あらが う効果が確実にある」ということを真顔でいえる専門家はいない、ということ。取り繕ったり(医者だって状況によっては取り繕います。私も取り繕うことはある。認知症の人だけにある反応ではない)、気休めに言ったり、別の意図があったり、知識や良識が欠如していたりすれば、そういうふうに言うこともままありますが。

 仮に、「サプリや運動や日誌をやった。すると、数年の単位で認知機能低下が起こらなかった」。でもそのことをもって、それらが認知症に効いた。そういうふうには考えない。もしそうなら医学的には、その人は認知症ではない、と判断します。つまり誤診。認知症の定義がそうさせるのです。認知症なら文字通りの根本治療がない今、経年で認知機能低下があることが認知症であることの必要条件です。認知機能低下が起こらない認知症はない、ということ。じっと考えるとややこしい。そう取り決めがあるのでしようがない。お金や身体の健康ほどには、認知機能低下をなくす手段を手に入れるのは難しい。いまは無理、と考えるのが専門的な見立てです。

 メタボについては介入、つまり運動したり、食事制限したりすれば、みるみる成果が出ます。にもかかわらずメタボに対する私の意識は上記の通りです。認知症のこととなれば、その効果も一気に不透明で、不安定になります。たとえあったとしても、ほんの少し。認知症の場合、少なくともメタボの人の運動ほどの介入効果はない。

 先の2組の会話。認知機能の低下を予防したり、遅くしたりすることを足場にして、その人の生活、「やりたい」ことを決めていく。そんなプロセスが裏にあるように感じたのです。そこに違和感があるのです。外で、くつろいで食事をする。それだけで十分でしょう。楽しいひと時。それで十分でしょう。

 その人が認知症でなければ、その瞬間瞬間を 謳歌おうか する。その人が認知症なら、認知機能の低下を遅くすることに足場がないと落ち着かない。そんな認識に無意識に立ってしまう。これって割に合わない。認知機能低下はおそらく簡単には止めることはできない。私であれば、食事なら、食事の瞬間をより深く味わうことに専念したい。その瞬間をより豊かに生きることに専念したい。そう思うのです。

 私はたまたま医師になり、認知症医療の現場に、長らくいます。私も年をとりました。私が診ている人も年をとっています。在宅診療をしていたので何人も 看取みと りました。社会の認知症に対する雰囲気もずいぶんと変わりました。

 たとえば10年ほど前から、認知症予防と称して、漢字の書き取りや計算ドリルや塗り絵は、家庭やデイサービスなどに、あっという間に普及していきます。昭和の風景のジオラマや昔の新聞、メンコやベーゴマ、軍歌、童謡、昭和歌謡曲。おそらく同時期に広がってきたように思うのです。回想法(英語はlife reviewとreminiscence。それぞれ意味が違うらしいのですが、ここでは触れません)というコンセプトが、発案者(故ロバート・バトラー氏)の意図(過去の自分を今の自分に統合する心理プロセスを伴う方法、と私は理解しているのですが)とは離れてしまって、昔の事物の展示会になっているように感じます。昔のものを見せれば、それが回想法、という誤解。さらには、それが認知症の予防になるというさらなる誤解。

 そういう雰囲気や文化が将来もそのままなら。私がさらに年をとって、認知症になる。その時にはいまのような介護保険があるかどうかはわかりませんが、デイサービスに通うとします。すると森昌子、山口百恵、西城秀樹各氏の歌を歌うことになるのかなあ。素晴らしい歌手。でも年老いた残りの貴重な時間をそういう形で割きたくはないなあ。やりたいこと、すべきことがあるのであれば、そっちをしたい。私が昔聴いていた歌謡曲を歌ったりすることよりも、たぶん、それ以外にやるべきことがある。

 しかし、それを一人でできる能力がなくなるかもしれない。一緒にやってもらえる人がいないとできなくなるかもしれない。でもそういう人がいないとする。スタッフに嫌われるのが怖くて、いやだとも言えず唯々諾々と、歌謡曲を歌わされているかもしれない。それは怖い。

 認知症の人の意思で、何か脳トレのようなものに、すがろうとします(前出、 認知症を予防したい )。認知症の人自らが「私は〇〇をしているから、認知機能が低下しない」というコメントをしばしば見聞きします。あるいは本人が言わなくても、周りの人が言うこともあります。配慮もあることだと思いますが、「〇〇さんは、いつも〇〇をしているから、認知症が進まないんですね」と発破をかけます。

 認知症の人自らがそう思っているのだから、それでいいじゃないか、という意見もあると思います。でもそういう営みには違和感がある。そんな無理難題な希望を抱き、そのうち打ち砕かれるより、いまの等身大の自分を受け入れ、いまを楽しむことに集中したい。そして安易な予防話に人生を無謀に託するのではなく、自然な衰えに自らを備えたい。

 人は衰える動物。皆さんは早かれ遅かれ認知症になります。認知症になれば、そうではない人よりも認知機能が早く落ちます。たとえそうなったとしても、自らのしたいこと、すべきことがあれば、それを実行してください。そういう文化が求められています。認知症のせいで、そこに不自由さがあるのであれば、そこが手助けを必要としている部分だと思うのです。

 昨年ACジャパンのコマーシャルで、佐野光孝さんがこう言いました。

 「認知症、それがどうした」

 今、認知症であることを公表するということは、大いなる決断が必要。そういった時代の先端にいる勇気ある人にメディアは当然集まる。その姿を見て、人ごとのようにカミングアウトを気軽にできると思うなかれ。生易しいものではない。

 コマーシャルの中の佐野さんの力強い「それがどうした」という言葉。認知症時代の先駆者の姿なのだと思います。彼らが、いまの文化という硬い岩盤を 穿うが ち、道を切り ひら く。尊敬に値します。

 彼らの姿から我々は何を学ぶのか。認知症の人の発信は、認知症の人だけのためではない。その発信を我々はどのように受け止めるのか。今一度、自分の「大切なもの・こと」をもう一度振り返ってみる必要がありそうです。健康、お金、アンチエイジング、認知症予防のまえに、「あなたにとって今なにが大切か」を知ることがものごとの第一歩。認知症の人の会話から、そう思い、それは我々の責務であるように感じたのでした。

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kinohsita

木之下徹(きのした・とおる) のぞみメモリークリニック院長

 東大医学部保健学科卒業。同大学院博士課程中退。山梨医科大卒業。2001年、医療法人社団こだま会「こだまクリニック」(東京都品川区)を開院し認知症の人の在宅医療に15年間携わる。2014年、認知症の人たちがしたいことを手助けし実現させたいと、認知症外来「のぞみメモリ―クリニック」を開院。日本老年精神医学会、日本老年医学会、日本認知症ケア学会、日本糖尿病学会に所属。首都大学大学院客員教授も務める。ブログ「認知症、っていうけど」連載中 http://nozomi-mem.jp/

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