小泉記者のボストン便り
医療・健康・介護のコラム
社会部記者 アメリカで健康問題を考える
初めまして。読売新聞の記者で小泉朋子と申します。今年7月から1年間の予定で、ハーバード大学公衆衛生大学院に留学しています。今回からアメリカの健康や医療に関する様々な話題をご紹介していきたいと思います。
私は2003年に入社し、社会部という部署で、厚生労働省や裁判所の担当をしてきました。厚生労働省担当の時には、認知症の方を取り巻く現状から、生活保護などの貧困問題まで幅広い分野の取材をしました。その後、裁判所の担当になり、認知症の人が起こした事故について家族が責任を負うのかを問う訴訟など、様々な裁判の取材をしました。生殖補助医療やDNA鑑定が発達する中で、親子関係をどのように規定するのかなど法律が想定していない問題が次々と法廷に持ち込まれていました。取材をする中で、変化する社会と健康、医療のつながりをもう一度きちんと考えたいという気持ちが高まりました。
格差が広がる日本でも参考に
今回、留学の機会を得て、アメリカで学びたいと思いました。一つには、「どのようにしたら健康で暮らせる社会を作れるのか」について幅広く考える公衆衛生の分野の研究がとても進んでいて、日本からも医師や行政の職員がたくさん留学をしていたこと。二つ目は、所得や健康の格差が大きいアメリカの状況は、格差が広がりつつあると言われる日本にとって、よくも悪くも参考になるのではないかと思ったからです。
医療制度が違う国と単純な比較はもちろんできませんが、負の面は決して同じことが起きてはいけないという意味で他人事ではないと思いますし、民間の力を活用した貧困層への支援や、最先端技術を駆使した遺伝子検査の体制など見習うところもあるのではないかと思いました。この連載では、健康と社会にまつわるアメリカのいろいろな事例を取り上げたいと思います。
初回は、私が留学をしている研究室のハーバード大学公衆衛生大学院、イチロー・カワチ教授へのインタビューです。カワチ先生は、社会のあり方が人々の健康にどのような影響を与えるのかを明らかにする「社会疫学」の権威として世界的に知られています。先生が「健康格差」について考えるようになったきっかけや、格差解消への処方箋について伺いました。
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イチロー・カワチ教授インタビュー 「上流」にある病気の原因に目を向ける
「社会疫学」の研究を始めたのは、内科医としての経験がきっかけです。日本で生まれ、12歳の時に父親の仕事の関係で移住したニュージーランドで「人の命を救いたい」という夢をかなえて内科医になりました。しかし、毎日診察する生活習慣病の患者は、薬や手術で治療し、「生活習慣を変えてください」と念を押しても、喫煙や偏った食生活などの習慣は変わらず、また病気になってしまいました。まるで傷口にばんそうこうを貼っているだけのようで自分の無力さを感じました。病気になるまでの過程を川に例えると、川の下流で医師がどれだけ手当てをしても、上流にある病気の原因を取り除かなければ意味がない。もっと根本的な原因に目を向けて多くの人の命を救いたいという思いが募り、医療の現場を離れて、予防について考える研究者になることを決めたのです。
診療から離れて、初めに関わったのがニュージーランドの禁煙運動です。たばこの広告を全面的に禁止するなど大きな成果を上げることができましたが、運動に関わる中で、喫煙の背景には経済や社会の格差に起因するストレスの多い環境など、個人の努力を超えたところにも要因があることに気付きました。
社会的な環境が健康に影響
健康問題を考える時、「意志が弱いから人は行動を変えられない」と考え、個人的な問題としがちです。もちろん個人にも責任はありますが、喫煙習慣や体に不規則な食生活を変えられないことは、その人を取り巻く社会的な環境による影響も大きいのです。
生活習慣を変える意志があっても、過重な仕事によるストレスなどの状況が続けばやめることは難しいです。もっと上流に目を向けて、企業や行政を巻き込んでワーク・ライフ・バランスを見直すなどの政策に取り組むことが必要です。
例えば、減塩が健康に良いことは明らかですが、「塩を控えめにしてください」と言うだけでは効果はあまり見込めません。企業と協力して、加工食品に加える量を減らすなど具体的に取り組むことが必要になる。運動をしやすい環境にするには、自転車専用のレーンを整備して車中心の社会からの転換を図るなど都市計画から考えなくてはいけません。そういった投資は、長期的に見れば医療費削減につながります。
人が健康に暮らすには、医療体制が重要なのはいうまでもありませんが、「格差の小さい社会」も一つの要素となります。ニュージーランドからアメリカに移住した時、道にはホームレスがあふれ、貧富の差に驚きました。アメリカの平均寿命は78.8歳と日本の83・4歳に比べて4・6年も短く、先進国の中でも最低レベル。一方、日本の長寿は世界に誇るべきことで、多くの国が学ぶべき点はたくさんあります。
人の絆が支える日本の長寿
日本の長寿を支えてきた要因には国民皆保険制度など様々なものがありますが、その一つに「人と人との絆の強さ」があると思う。人と交流をすることで、体に良い食事など情報のやり取りが増えたり、病院や趣味のサークルに行くときに送迎してもらえたりするなど具体的な生活の手助けを受けられるようになります。また、病気になるなどつらいことがあったときに、励ましてくれたり、慰めてくれたりと感情的な支えができる場合もあります。このようなことが、健康に影響を与えると考えられるのです。
冠婚葬祭で近所が助け合うなど、日本では地域の絆が強いことが健康に大きく影響してきたと思います。しかし、近年は日本でも所得や雇用の格差が広がり、人とのつながりが希薄になっています。健康問題にも影響を与えるのではないかと気がかりです。
格差解消に向け幼児教育への投資を
格差解消のためにしなければならない施策はいくつかありますが、その中でも最も優先順位が高いのは、幼児期の教育への投資だと思います。
アメリカでは1960~70年代に幼児教育に関する大規模な調査が実施されました。経済的な理由で教育が受けられない生後4か月から4歳までの幼児を対象とし、半分の子供には集中的に教育を施し、残りの半分には特別なことをせず、健康状態などを追跡調査しました。
その結果、集中的な教育を受けた幼児は大学への進学率、収入や持ち家率などが高くなりました。それに加え、喫煙率が約20%低かったのです。幼児教育を通じて自分をコントロールする能力を身に着けることは、その後の健康管理などへの影響が大きいといえます。多くの国では大学など高等教育に力を入れていますが、それでは遅すぎます。長い期間がかかり効果が見えにくいため、幼児教育への投資はなかなか実現しませんが、早急に取り組む必要があると思います。
手遅れになる前に 社会を変えよう
92年にハーバードに着任してから約25年間、「社会と健康」という授業を担当し、健康格差が生まれる背景について話をしています。受講生には医師も多いです。たいていの人は医師を志した時には、貧困などの格差が健康に大きな影響を与えていることを自覚していますが、私自身がそうだったようにトレーニングを受けるうちに技術的なことにとらわれ、社会と健康の関係を忘れてしまいます。現場の医師や健康施策に関わるリーダーたちがこのことを認識することはとても大切だと思っています。
日本でも近年、公衆衛生の重要性は認識されつつあります。国の健康増進の指針「健康日本21(第2次)」の目標の一つには、「健康格差の縮小」が盛り込まれました。日本も手遅れにならないうちに、「格差」の問題を正面から考え、社会全体の枠組みを変えていく必要があると思います。
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【略歴】
イチロー・カワチ ハーバード大学公衆衛生大学院社会行動科学部長・教授
1961年、東京生まれ。ニュージーランド・オタゴ大学医学部卒、同大学院で博士号取得。92年に米ハーバード大学公衆衛生大学院の研究員となり、2008年から現職。『命の格差は止められるか』(小学館)など著書多数。
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