原記者の「医療・福祉のツボ」
医療・健康・介護のコラム
貧困と生活保護(39) 人を死なせる福祉の対応(中)北九州市の悲劇
生活保護が適切に運用されないことで起きる悲劇。今回は、北九州市でかつて相次いだ餓死、自殺、孤立死を取り上げます。北九州市で悲惨なケースが続出したのは、理由があります。生活保護の利用を抑え込むために、ひそかに数値目標まで設け、水際作戦、保護辞退の強要といったやり方を徹底していたからです。1990年代の終わりから他の大都市はどこでも人口比の保護率が急上昇していたのに、北九州市の保護率だけは横ばいでした。貧困が広がる中で、生活保護をむやみに締めつけ、行政が冷酷な対応を重ねると、どういう事態が生じるか、北九州市の当時の惨状は、生々しく物語っています。
子どもに援助してもらえと言われ、餓死…門司区
2006年5月23日、関門海峡を間近に望む門司区の市営後楽町団地で、独り暮らしの男性(当時56歳)が、ミイラ化して発見された。検視の結果、死亡は約4か月前。直接の死因はうっ血性心不全とされたが、極度の栄養失調で、実質的な餓死だった。Aさんは足の不自由で、4級の身体障害者手帳を所持。前年に2回、生活保護を受けたいと区役所に言ったが、申請として扱われていなかった。
前年9月28日、家賃を滞納していたAさん宅を市住宅供給公社の職員が訪ねると、Aさんは床をはって出てきた。すでに電気、ガス、水道が止められていた。公社は「脱水症状で衰弱している」と市水道局に通報。30日、門司区役所はケースワーカーと保健師を派遣した。室内に食べ物はほとんどなく、近所の公園からくんできたペットボトルの水が並んでいた。
Aさんは「お金がない。生活保護を受けたい」と言ったが、ケースワーカーは、市内に住む次男と連絡を取って福祉事務所に来るように求めた。区役所に戻った保健師は「栄養状態が悪く、不整脈もあり、いつ、どういう状態になってもおかしくないのでは」と報告した。
同日夕、Aさんと次男が区の保護課を訪れた。Aさんは「(保護を受けて)入院したい」と言った。しかし保護課の面接主査は、次男が「栄養さえつければ回復する」と発言したことを理由に、親族でよく話し合うよう求め、次男が食べ物を差し入れることになった。次男は未婚で母(男性の別れた妻)と暮らし、コンビニでアルバイトする生活。数日に1回、パンや水を届けたが、経済的余裕はなかった。保健師は11月10日までに計5回、訪問した。
12月6日、Aさんは次男と一緒に再び区役所を訪れ、保護を受けたいと改めて頼んだ。やせて目がくぼみ、次男に支えられて立っていた。けれども保護課の面接主査は、長男に援助してもらえないか打診するよう求めた。「考えてみる」と帰宅したAさんから、その後連絡はなく、区役所からの訪問もないままだった。長男は結婚して離れた区に住み、5人の子どもを育てていた。
「生きてる時からガリガリで、足は物干しざおみたいに細かった。なんで保護してあげんかったんか」。筆者が取材に出向いた時、団地の同じ棟に住む女性は嘆いた。Aさんは前年7月にも栄養失調で動けなくなり、町内会長と民生委員が区役所へ窮状を伝えたことがあった。だが、担当者は「救急車を呼ばれたらどうですか」と言っただけ。しかたなく2人で救急車を呼んで病院へ運んだ(3日ほどして自分で退院)。民生委員は12月29日の訪問を最後に、体調を崩して訪問できなくなっていた。
遺体発見後、市は「すぐ命にかかわる状態でなかった。親族の扶養の活用は保護を受けるのに必要」と説明した。当時の市長は「市の対応に何も問題はない。孤独死を防ぐために重要なのは、地域住民の協力体制だ」と語った。
【コメント】 Aさんは生活保護を受けたいという意思を2回、明確に伝えており、そのことは面接記録にも書かれていました。保護の申請は口頭でも有効です。つまり申請したのに、福祉事務所は相談として扱ったのです。相談だけでかわす水際作戦どころか、申請無視とも言える違法な対応です。
しかも福祉事務所は、生活保護の前に、親族による援助を求めました。しかし親族による扶養は、保護の「要件」ではなく、現実に援助があれば、それを「優先」して使い、不足分を公的に扶助するという意味です。扶養義務を活用していなくても、保護できない理由にはなりません。北九州市では、「優先」にすぎない親族の扶養を、「要件」であるかのように運用していたわけです。
栄養状態が悪く、衰弱し、ライフラインも止まっていたのだから、急迫状態として職権でも保護してよい状況です。生きるか死ぬかの状態でも保護しなければ、死んでしまうのは当たり前です。
なぜ餓死するのか、飢えて空腹になったら、死にものぐるいで食べ物を探し、助けを求めるはずだ、と考える人もいるかもしれませんが、それは間違いです。栄養が低下すると、体が衰弱し、気力も落ち込んでいきます。SOSを出す力さえなくなってしまうのです。
保護を辞退させられ、「オニギリ食いたい」と餓死…小倉北区
2007年7月10日、小倉北区明和町の民家で、独身の男性Bさん(当時52歳)が遺体で発見された。死後1か月程度。直接の死因は不明だが、餓死と言ってよい状況だった。前年末から生活保護を受けていたが、同年4月に保護の辞退届を提出し、打ち切りになっていた。自宅は廃屋のように荒れていた。
Bさんがノートに残した日記には、2月ごろから自殺願望の言葉がしばしば書かれていた。さらに保護の辞退を強いられたという趣旨の記述があり、「腹減った。オニギリ食いたい」と何度も書いてあった。具体的には、以下のような内容だった。
<4月5日> 体がきつい、苦しい、だるい、どうにかして
<日付不明> せっかくガンバロウと思っていたやさき、切りやがった。生活困窮者は、はよ死ねってことか。
<5月25日> 小倉北のエセ福祉の職員ども、これで満足か。貴様たちは人を信じる事を知っているのか。3月、家で聞いた言葉、忘れんど。市民のために仕事せんか。法律はかざりか。書かされ、印まで押させ、自立しどうしたんか。
<同日午前2時> 腹減った。オニギリ腹一杯食いたい。体重も68キロから54キロまで減った。全部自分の責任です。
<5月26日午前3時> 人間食ってなくてももう10日生きてます。米食いたい。オニギリ食いたい。
<6月5日午前3時> ハラ減った。オニギリ食いたーい。25日、米食ってない。
Bさんは前年10月までタクシー運転手をしていたが、アルコール性肝障害、糖尿病、高血圧があり、病気のため仕事ができなくなった。12月6日に姉と一緒に福祉事務所を訪れ、翌7日に生活保護を申請。同月26日に保護が開始された。
市立医療センターの検診と嘱託医協議で「軽就労可」と判定され、07年1月16日、ケースワーカーが自宅を訪問し、仕事を見つけて自立するよう指導した。さらに2月23日、ケースワーカーは病状調査票をもとに「普通就労が可能」と判断。いっそうの求職活動をするよう指導した。福祉事務所はBさんを「自立重点ケース」に位置付けており、3月29日にも、熱心に求職活動をするよう指導した。一方でケースワーカーは、Bさんの様子を見て、精神科を受診するよう勧めていた。
07年4月2日、福祉事務所を訪れたBさんにケースワーカーが就労を指導した。Bさんは「自立しますので平成19年4月10日を持って(原文ママ)生活保護を辞退します」という辞退届を提出。4月10日付で保護廃止になった。その後、福祉事務所とのかかわりは途切れていた。
07年2月23日付の病状調査票で、就労に関する主治医意見欄には「普通の仕事」にチェックが入っていたが、この調査票はケースワーカーが作成しており、主治医に内容確認を求めていなかった。主治医は、自分の判断と異なると反発。市が設けた検証委員会で「内臓的な症状は改善されていたが、前年に東京に住む弟が事故で亡くなったことで落ち込み、不眠を訴えていた。うつ症状があると思った。デスクワーク程度の軽い仕事ならできるが、とても普通の仕事をできるとは思えなかった」と証言した。
【コメント】 保護辞退の強要は「硫黄島作戦」とも呼ばれます。水際で防げなかったら、島の中から撃退を図るという意味です。福祉事務所側から保護を廃止するときは、不利益な行政処分を行おうとする理由の説明、本人の言い分を聞く聴聞といった手続きが必要で、本人が審査請求で争うこともできます。辞退届ならそれらの手間が省けることもあって、しばしば現場で用いられてきました。
しかし、本意によらない辞退届を書かせるのは、もちろん違法です。しかも、Bさんは具体的に働くメドが立っていないのに、就職先、勤務条件、収入などを確認しないまま、辞退届を提出させたのです。
健康状態・労働能力の評価では、医師の意見が決定的な影響を持ちます。Bさんの場合、主治医はうつ状態と見ていたのに、ケースワーカーが勝手に「普通就労可」にしていました。さらにケースワーカー自身もBさんの精神状態を不安視しつつ、就労指導を続けたのです。心身の状態を無視して、とにかく働くように求めるのは乱暴です。しかも「働きなさい」という尻たたきばかりで、具体的な就労の援助がありません。現在の就労支援では、意欲の回復、就業体験、履歴書の書き方や面接の練習、ハローワークへの同行といった具体的支援に取り組むよう、厚労省は求めています。
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