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東北大病院100年

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第4部 異端児(下)「楡家の人びと」着想得る…芥川賞作家・北杜夫

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第4部 異端児(下)「楡家の人びと」着想得る…芥川賞作家・北杜夫(1927~2011年)

東北大在学時の北杜夫(妻の斎藤喜美子さん提供)

 ◇芥川賞作家・北杜夫(1927~2011年)

 「どくとるマンボウ」シリーズなどユーモアあふれる作品で知られる芥川賞作家の北杜夫。その生涯をたどる特別展「北杜夫―どくとるマンボウの生涯―」が昨年4~6月、仙台市青葉区の仙台文学館で開かれた。

 北は、精神科医でもあった歌人の父、斎藤茂吉に医師になることを勧められ、旧制松本高(長野)から東北大医学部に進学した。在学中から文芸雑誌に投稿するなど作家を志していた。

 特別展は、仙台時代の北に焦点をあてており、当時の創作ノートや日記、絵画など約120点が紹介され、約3000人が訪れた。北の1年先輩で、医師の千田典男(90)(仙台市青葉区)もその一人。当時の写真をのぞき込み、「懐かしいねえ」と顔をほころばせた。

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北の特別展を訪ね、医学部時代を懐かしむ千田さん(2015年5月、仙台市青葉区で)

 2人の接点は卓球だった。北は医学部時代、授業にほとんど出なかった。お昼頃、かばんに卓球のラケットとノート1冊を入れて登校し、当時の学生食堂の脇にあった卓球台のある部屋で過ごした。

 北、千田ともに高校時代は卓球部に所属。いずれも全国大会に出場したほどの腕前で、週に3~4回は一緒に卓球に興じた。

 青春時代を回顧した作品「どくとるマンボウ青春記」には、「卓球が強い先輩」として千田が登場する。2人は、仙台市内の中学で卓球部のコーチを務めるなど、卓球を通じた交流を続けた。千田は「授業に出なくても試験の情報収集がしっかりしているから卒業もできた。頭は良かったし、要領が良かった」と語った。

広野典男さん

広野典男さん

 山形県新庄市の医師、広野典男(87)は北の同級生。最も思い出に残っているのが、医師国家試験だという。授業にほとんど出なかった北は、広野ら友人から不合格になると心配された。

 困っている北に広野がアドバイスしたことがある。口頭試験で、面接官の質問に答えられない時には、知っているけれど、ど忘れしたように装えばいい、ということだった。試験後、面接の部屋から出てきた北は「なんとかうまくすり抜けてきたよ」。結局、無事に合格したという。

 広野は、東北大病院などに勤務したのち、新庄市に戻って医院を開いた。東京で精神科医になった後、作家に転身した北とは別々の道を歩んだが、年賀状のやりとりは長年、続いた。

 青春時代を懐かしむ年もあれば、意味のわからない短歌が書かれた年もあった。卒業した後、会うことはなかったが、「元気に活躍していることがわかってうれしかった」と広野は言う。

 特別展を企画した同文学館の三條望(30)は、北が仙台で過ごした医学部時代について、北杜夫のペンネームでデビューしたり、代表作の「 楡家にれけ の人びと」の着想を得たりと、小説家として歩み始めた原点だと指摘する。

 三條が特別展の計画を練り始めたのは2014年。仙台市出身の三條は、東日本大震災後、社会が真面目になり、おおらかさが失われていると感じていた。「そんな時代だからこそ、ユーモアあふれる北の作品を多くの人に手にとってほしい」

 北杜夫(きた・もりお) 本名は斎藤宗吉。東京都出身で歌人・斎藤茂吉の次男として生まれる。1960年、ナチスと精神病の問題を扱った「夜と霧の隅で」で芥川賞。代表作は「どくとるマンボウ航海記」など。

 (敬称略。この連載は加納昭彦が担当しました)

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