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神経筋難病患者の生活を支える医師 石川悠加さん

編集長インタビュー

石川悠加さん(2)「天職」に導いた患者たちとの出会い

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石川悠加さん(2)「天職」に導いた患者たちとの出会い

NPPVに導いた2人の兄弟患者について語る石川さん 

 石川さんは、生まれた時から、医師になることを運命づけられていた。

 

 「私は予定日を3、4週過ぎて生まれたのですが、生まれてすぐは産声もあげられませんでした。当時は新生児科もなく、吸引機もなかったので、助産師に呼ばれて駆けつけた産科医がゴムのホースを私の口の中に入れて、のみ込んで詰まっていたものを吸い取っては何度もぺっぺっとはき出してくれたそうです。それでようやく泣き始めて助かったので、薬剤師の母から繰り返し、『そんなふうにしてあなたはお医者さんに助けられたんだから、恩返しをしなくちゃ』と言い聞かされて育ったのですね。私も子どもでしたから、わりと素直にそうかと思ったのです」

 

 1978年に札幌医大に入学し、4つ学年が上の夫(石川幸辰・現八雲病院長)と卒業直後に結婚。医師を目指した動機も頭の片隅にあって夫と同じ小児科を選び、大学院に進んでいた夫と一緒に米国に留学した。そこで先天代謝異常や遺伝子検査の研究をし、その頃可能になったデュシェンヌ型筋ジストロフィーの家系診断にも携わった。

 

 3年後に帰国し、「自分を救ってくれた新生児の診療を一度はやらなくてはならない」と志望して、北海道立小児総合保健センターの新生児集中治療室(NICU)で働いた。

 

 「ところが、1年ぐらいたつと、これを私はあと40年やりたいだろうか、と自問するようになりました。患者さんは容体が不安定な赤ちゃんですからお話もできないし、私には表情を読み取ることもできず、次第に同じようなことの繰り返しと感じるようになっていきました。新生児を助けることが医師になる動機だったにしては、わりとあっさりと、この診療科はもう続けられないと思ってしまいました。だからといって、何をやりたいというのが見つかっていたわけではありませんでした。その頃には、29歳になっていたので、子どもを産むなら遅くならないうちに産もうと思って妊娠しました」

 

 当時は、急性期病院で働く女性医師が妊娠すると、出身の大学医局が引き取り、代わりの医師を大学から病院に補充するのが慣例だった。しかし、帰国後、夫が八雲病院に赴任していたのを理由に、「そちらで面倒をみてもらいなさい」と同院に赴任するよう指示された。

 

 「出産後の生活が落ち着いたら1年ぐらいでどこかの急性期病院に移るのだろうなと考えて、八雲に軽い気持ちで来たんです。成り行きです。こういう病気を診療したいという希望もなかった。私はむしろ福祉の分野はあまり得意ではないと思っていて、医療と福祉が合体していないとできないこの病院の診療は複雑で難しそうだし、むしろ避けたいところでした。もっと単純に医療のことだけを考えていればいい分野に進みたいと思っていましたね」

 

 無事出産し、産前産後約2か月で病院に復帰。すると、筋ジストロフィーの10代後半の男性患者が、たった2か月の間にすっかり頬がこけて、やせ細っていたことにショックを受けた。

 

 「病気の進行のせいだったのでしょうね。私も赴任したての時は気後れして、どうせ1年ぐらいしかいないだろうという腰掛け意識がありましたし、患者さんも患者さんで、『この人はどれぐらいいるのだろう』と、互いに距離をおくようなところがあったのですね。彼らも自己防衛本能が強くて、あまり医師と親しくなっても、その人がいなくなった時に寂しくなったらいやだと思って、人との距離をコントロールしていたところがありました。お互いに近づかないまま、いつの間にか体調が悪くなっていく子がいるのに気づいた時、自分はここで何ができるのだろうと悩み始めました。私のそれまでの医師のイメージは、『治す人』でしたから、非常に不十分なことしかできていないという意識がありました」

 

 当時の患者の中でも、札幌市から入所していた17歳の筋ジストロフィーの男性患者は、唯一、親しく会話できる相手だった。母親は離婚し、札幌で働くことになったため、自宅では面倒をみられないし学校にも行けないと、中学生の頃から八雲病院に預けられていた。

 

 「医者って何をする人?」と尋ねられ、石川さんが答えられないでいると、「医者って病気を治す人のことだよね。じゃあ、先生は医者じゃないよね。だって、病気治していないもん」とたたみかけてくる。苦しそうな息の下、「やりたいことがろくにできないまま、中途半端に長生きするだけの薬だったらもう飲みたくないよ」と処方した薬を突っぱねられたこともあった。必死で心筋症の治療情報を調べ、薬が効くと、「少し楽になったよ。先生もちょっとは医者らしいことするんだね」と褒めてくれることもあった。

 

 「お母さんともなかなか会えずに、『なんで自分はこんなところにいなくちゃいけないんだ』とよく私に尋ねてきました。私もその問いには答えられず、『私も札幌出身だけどここにいるし、お互いになぜここにいるかはよくわからないけれど仕方ないんじゃない? 自宅で医療を受けられる態勢がないと帰れないよね』ぐらいしか言えなかった。子どもたちは望んでもいないのに、病気という理由だけでここに来て、会いたい人にも会えないし、行きたいところにも行けない。そして、私は医者だけれども、その病気を治すことができない。そう思ったら、やっぱりこの子たちを置いてはいけないなと思いました。だから、その子には、『帰るなら、一緒に帰ろう』と言っていたんです」

 

 その約束はかなわなかった。その後、彼は心不全が悪化して21歳で亡くなった。

 

「結局、生きているうちに彼の疑問には答えられなかった。ほかにも、お母さんが離婚して働いていたり死別したりして、小さい頃から預けられているという子が何人かいました。 (おぼ) れて、蘇生されて、集中治療室(ICU)で低酸素脳症になって、気管切開し、人工呼吸器の世話になった子がいましたが、元気な時は学童保育に預けてお母さんも働けたけれども、医療の手がかかるようになったら預けられるところがない。そして、義務教育を受けさせることが必要となると、養護学校も併設しているここに送られてくるのです。医療の手がかかるようになった子は、とたんに自分の住んでいる地域で通学や生活ができなくなって、家族からも遠く離れたここに来ざるを得ない。おかしいことだと思っていました。心不全で亡くなった彼が私に投げかけた問いに答えを持たない私が1人で帰るわけにはいかないと、結局、ここにい続けることを決めたんです」

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岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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1件 のコメント

石川悠加さん

筋ジス保因者

来年の24時間テレビで、ドラマ化して下さい。 または病院紹介をして下さい。

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