木之下徹の認知症とともにより良く生きる
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認知症なのか、年のせいなのか?
よくこんな話があります。
「結婚式に出た食事の内容を思いだせないのは、加齢によるもの忘れ」
「結婚式に行ったこと自体を思いだせないのは、認知症によるもの忘れ」
本当なのでしょうか。
「連れてこられる認知症」の時代。本人の意思はともかく、家族が「家じゃあ、もう大変」な状態。本人のことが心配。一方で、面倒をみている家族もしんどい。さすがに医療機関の受診を家族が考えます。どうにか言葉を尽くし、本人を説得する。あるいは「まあ、市の健康診断なんだから」と本当のような 嘘 のような話で煙に巻き、医療機関に連れていく。診察室までようやくこぎつける。連れてきた家族が本人に悟られないように私に目配せする。「認知症だと本人には言わないでください」と必死のサイン。そうなれば、こちらも本人に認知症と悟られないように力を尽くします。
「いいですか。これから3つの単語を言います。覚えておいてください」と本人に伺う。
こちらの態度と口から出る言葉のギャップ。不自然極まりない会話。ここで本人が怒り出せば、元の 木阿弥 。やっと連れてきた家族からも、ただでは済まされない。異様な緊張感が走る。しかしたいてい、なぜか自然に検査が淡々と進みます。本人は神妙な面持ち。お互いに「認知症」という言葉を使わないで、なにかを了解し、見えない連帯感が生じる。
こういった「連れてこられる認知症」の時代における認知症の診立てについて、家族も医師も、「外から判断」できる基準が求められます。「言うこと、することがこれこれこうだから認知症だ」というふうに。なぜなら、本人から「自分は、言うこと、することがこれこれこうだから、認知症だと思うよ」と教えてくれません。目印が欲しい。はたから見てわかるような目印が。かといって、姿かたちからは、あたりまえですが、認知症であるかどうかわからない。上着のボタンが掛けちがえている。たばこで焦がしたズボン。シャツを半分ズボンから出しながら歩く。壊れたメガネ。これは普段の私の姿であって、認知症かどうかの判断には使えません。
ところで、2014年に警察庁生活安全局生活安全企画課が「認知症 徘徊 行方不明者1万人超」と発表した時のことです。「行方不明を未然に防ぎたい。地域の警察官はどうしたら徘徊している人を発見できるのか」。そんな質問を私にした人がいました(「徘徊」という言葉遣いについては、さらに複雑になるので、ここでは触れません)。
私は「認知症の人の発見の方法? そんなもんありません。無理」と。
相手は「それじゃあ、どうしたらいいんですか!」
なぜ、私は逆ギレされなければならないのか。しかし、人から頼まれれば、なかなか断れない。そこで、
私「地域の交番のお巡りさんが、目の前を通り過ぎる人、片っ端から 挨拶 すれば、いいんじゃないの」
相手「えっ、認知症の人に、じゃなくて?」
私「だって、わからないでしょ。『あっ、この人認知症だ』なんて。だいたい、今、認知症を中心にして始まる話って、お世話の対象として始まりがち。そもそも認知症の人が見れば、引くよ。気持ち悪くない? ふつうの暮らしの延長にないとね。『認知症の人にいいことしてあげる』って思うより、『近い将来の自分ならどうか』と考えたほうがいいんじゃないのかね」
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