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2件 のコメント

一小児科医の感想

GK0303

小児の終末期対応におけるコンセンサスの未成熟を指摘されていて興味深い記事でした。
個人的な経験では、患児の年齢によっても対応は変えざるを得ないように思います。10歳をすぎて思春期にさしかかると、生への執着、死にたくないという欲求が強くなるようです。もうすこし小さい子なら、天国に行って幸せになれるよ、という言葉をかけることで、少なくとも周囲(少なくとも医療者)は贖罪感が得やすいのですが。
また、抗癌剤や放射線など直接に『闘病』する手段があって、それを尽くした結果としての悪性腫瘍の終末期と、初めから支持療法しかない神経筋疾患では、やはり周囲の贖罪感が違うのではないでしょうか。
どこで苦痛をとる治療に切り替えてあげるかは、現実的にはそういった贖罪感との兼ね合いが大きく、日本では贖罪感を得るための宗教的バッファーが希薄、というのも関係するのではないかと思ったりします。

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生かすことの責任

ヤマボウシ

昨年、産科とNICUを扱ったドラマ「コウノドリ」がありました。神奈川県立こども医療センター監修で、産むか産まないか、母体と新生児のどちらの命を取るか、先のない命をどう受け入れるかなど、老人医療とは別の生命の問題を真面目に提起していたと思います。
そこで感じたのは、医療が生かした責任は誰が負うのかという問題です。出産は胎児にとって命の危険が大きい、でもそれは神が与えた適者生存のハードルではないか。それを人間が越えさせるというなら、最後まで面倒を見る責任を誰が全うできるのか。重篤な障害を持って生まれた命を支え続ける家族の負担は想像を絶します。医師は救命に当たって医学的見地の判断だけで良いのか、あえて聞きたいです。
救える命は救いたい、それは医師の理想ですが、実際は医師の手の届かない患者の生活環境に左右されます。そもそも経済的困窮者は病を得ても受診できません。栄養状態や住環境も悪いから治癒力も劣る。介護者がいなければ放置されます。
患者側は口には出さないもののそういうことで命の重さを計っていることでしょう。出世前診断はまさにそれではないですか。それが人間が生きていくということの現実であり、医学医療は独立した聖域ではなく、人間の営みの中で捉えるべきものだと思います。

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