小児の緩和ケア医として子どもを診る立場から 多田羅竜平
さよならを言う前に~終末期の医療とケアを語りあう~
【延命治療】子どもの自然な死を受容するということ
テーマ:「延命治療」とは何か? 無意味な治療と必要な治療を分けるもの
医療には、「生命をより長くすること(生命の量的な改善)」と「生命の質をよりよくすること(生命の質的な改善)」の2つのゴールがあります。そして、多くの場合、この2つのゴールは相反することなく両立し得ます。
一方で、この2つのゴールが両立し得ないこともあります。特にジレンマとなるのは、病気を治癒することが期待できない終末期において、治療によって生命の延長を図るか、それとも治療による生命の延長を断念して安らかな死を迎えること(いわゆる「自然な死の受容」)を選択するのかという問題です。
わが国において「自然な死の受容」に関する法的位置づけは明確ではありませんが、これまでの社会通念として、治癒が見込めない終末期の患者さんにおいて、有益性の乏しい治療の実施を差し控えて、自然な死を受容すること自体は広く社会的なコンセンサス(同意)を得られていると考えてよいでしょう。しかし、その実施におけるルールは曖昧で、現場の裁量に任されているのが現状です。
「自然な死の受容」について検討するためには、生命維持のための治療によって得られるメリットとデメリットを 天秤 にかけて、どちらがより大切かを比較(価値判断)しなければなりません。そのためには「その治療はどのような苦痛・困難を与えるのか?」「その苦痛・困難を回避することは生命を維持することより大切なのか?」そして「それは誰が決めるのか?」といった判断が必要になります。
ただし、その判断は必ずしも容易なことではありません。とくに子どもの終末期にはより大きなジレンマに直面することになります。ここでは子どもの自然な死の受容をめぐるいくつかの問題について概観してみたいと思います。
子どもの生命を守るという美徳
本来、子どもの生命を守ることは社会が大切にしている美徳です。小児科医は子どもの生命を守ることに強い使命感を持って働いています。また、親にとって、愛する子どもの生命は自分の生命以上に大切なものであり、一日でも長く生きてほしいと願っています。そのため、死に直面する子どもを見守る周りの大人たちにとって「子どもの生命を守りたい」という思いは、時として、治療がもはや生命の延長(量的な改善)すらほとんど期待できない状況においても、「治療を手控える」という態度を示すことを 憚 らせ、治療のアクセルが踏み続けられることがあります。その結果、死が間近に迫る中、集中治療室への入室、循環・呼吸維持のための集中治療、輸液や血液製剤の大量投与、心肺蘇生術、といった生命維持のための治療が展開され、最終的には人々が思い描く「安らかな死」とは異なる状況の中で子どもの死を迎えることにもなります。
わたくし自身もNICU(新生児集中治療室)や救急の現場で、救命の限界を超えていることが分かっていながら全力で治療を続けた経験は何度もあります。
一例をあげますと、インフルエンザ脳症の患者さんが、急速に脳のむくみが悪化し、脳波はほとんど反応せず、脳の機能は著しく低下した状態になりました。血圧を上げるための昇圧剤を最大限投与しても血圧維持が難しく、血圧、脈拍は低下していきました。もはや救命が不可能であることはスタッフ全員が分かっていましたが、最終的には長時間にわたる心臓マッサージも行いました(その間、家族の方々は祈る思いで、その経緯を遠くから見守っていました)。
確かに、それは美徳であり「最後までよく頑張ったね」と称賛されるべきことなのかもしれません。一方、いったん立ち止まって考えてみると、「最後まであきらめないこと」と「安らかな死」のどちらが周囲の大人たちにとって幸せだったのか。それ以上に、どちらが子どもにとって幸せだったのか。悩みは尽きません。皆さんが親の立場だとしたら、あるいは患者の立場だとしたら、どちらの選択を望むでしょうか。
生命の質は誰が決めるのか
治療は、時として苦痛を生じ、生命・生活の質を低下させてしまうことは少なくありません。しかし、どのぐらい生命の質が低下する場合に生命維持のための治療を控えることが許容されるのか、人々の価値観は多様です。特に、自分で判断することのできない子どもにおいて、何を根拠にその子どもの生命の質を判断すればいいのか、悩まされることは少なくありません。
例えば、生命を脅かす病気や重度の障害を持って生まれた赤ちゃんに対する積極的な治療を親が拒むことがあります。そして、医療チーム側は、子どもの命を守ることへの使命感から、積極的な治療を行わないという判断に 躊躇 を感じることがあります。
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小児の終末期対応におけるコンセンサスの未成熟を指摘されていて興味深い記事でした。
個人的な経験では、患児の年齢によっても対応は変えざるを得ないように思います。10歳をすぎて思春期にさしかかると、生への執着、死にたくないという欲求が強くなるようです。もうすこし小さい子なら、天国に行って幸せになれるよ、という言葉をかけることで、少なくとも周囲(少なくとも医療者)は贖罪感が得やすいのですが。
また、抗癌剤や放射線など直接に『闘病』する手段があって、それを尽くした結果としての悪性腫瘍の終末期と、初めから支持療法しかない神経筋疾患では、やはり周囲の贖罪感が違うのではないでしょうか。
どこで苦痛をとる治療に切り替えてあげるかは、現実的にはそういった贖罪感との兼ね合いが大きく、日本では贖罪感を得るための宗教的バッファーが希薄、というのも関係するのではないかと思ったりします。
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昨年、産科とNICUを扱ったドラマ「コウノドリ」がありました。神奈川県立こども医療センター監修で、産むか産まないか、母体と新生児のどちらの命を取るか、先のない命をどう受け入れるかなど、老人医療とは別の生命の問題を真面目に提起していたと思います。
そこで感じたのは、医療が生かした責任は誰が負うのかという問題です。出産は胎児にとって命の危険が大きい、でもそれは神が与えた適者生存のハードルではないか。それを人間が越えさせるというなら、最後まで面倒を見る責任を誰が全うできるのか。重篤な障害を持って生まれた命を支え続ける家族の負担は想像を絶します。医師は救命に当たって医学的見地の判断だけで良いのか、あえて聞きたいです。
救える命は救いたい、それは医師の理想ですが、実際は医師の手の届かない患者の生活環境に左右されます。そもそも経済的困窮者は病を得ても受診できません。栄養状態や住環境も悪いから治癒力も劣る。介護者がいなければ放置されます。
患者側は口には出さないもののそういうことで命の重さを計っていることでしょう。出世前診断はまさにそれではないですか。それが人間が生きていくということの現実であり、医学医療は独立した聖域ではなく、人間の営みの中で捉えるべきものだと思います。
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