大学病院でがん患者を看護する立場から 梅田恵
さよならを言う前に~終末期の医療とケアを語りあう~
【延命治療】“人として生きる”イメージは人それぞれ
テーマ:「延命治療」とは何か? 無意味な治療と必要な治療を分けるもの
先日、100歳の義父を見送りました。90歳を超えた頃から、何をするにも「これが最後だな」が口癖のようになっている父でした。これまでに数回、転倒で救急車のお世話になりましたが、手術やリハビリテーションの 甲斐 があり、延命が 叶 えられていました。義父はその命に感謝し、毎日の読経を欠かすことなく、同居している兄夫婦や近くに住む姉たちに支えられながら毎日、証券会社や老人会に顔を出し、日々を送っていました。
私は、義父には何も役に立たない嫁でしたが、緩和ケアに長く携わってきた看護師として、父らしい人生を最期の時まで全うしてもらえるよう、出番が来るのを待っていました。身の回りのことが自分でできなくなった父をしばらく自宅でケアして、父の人生を少しずつ孫と共に聞かせてもらい、家族に囲まれた静かな 看取 りを迎えることをイメージしていました。そのことを叶えるためにも、不用意な医療(意味のない延命治療)によって台無しにされないよう、準備をしておきたいと常々考えていました。
その準備とは、転んだり倒れたりして意識がなくなった時や医療処置が必要になった時、医療に何を求めるのか、家に戻れない状況でも医療処置を受けたいのか、どこで最期を迎えたいのかについて、父も含め子供たちで話し合っておくことでした。父の意思に沿うためにも確認しておかねばと考えていました。
しかし、息子である夫は、「父は覚悟しており、生かされる日々を大切に過ごしている。最期の過ごし方を確認するなんて、そんな酷なことはしたくない」との意見でした。医療の中で、さまざまな延命場面に遭遇し準備が必要と考えている私と、医療からは離れた日常を送り医療が何とかしてくれると思っている夫と見解はまとまらず、父の意思の確認には至っていませんでした。また、義父の聴力の衰えは日に日に厳しくなり、話し合おうにもこちらの意見は伝わりにくくなっていました。本人が想定していない話は、ただ誤解を与えるだけになりそうで、思うようには展開しませんでした。
そんな中、父は突然、脳出血で病院に運ばれました。当初は 麻痺 が残ることを覚悟するようにとの医師からの説明でした。翌日になり、急に延命治療の是非について意思決定が家族に求められました。既に、義父本人の意思は確認することができず、延命処置をしてもこれまでの生活を続けることは難しいとの医師の見解がありました。
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ひろ
延命治療をしないと話あった主人との別れは、4年が過ぎた今でも日々苦痛と後悔をもたらしています。 本人の意思がわかり、例えその通りになっても残され...
延命治療をしないと話あった主人との別れは、4年が過ぎた今でも日々苦痛と後悔をもたらしています。
本人の意思がわかり、例えその通りになっても残されたものは、それでも生きていてほしかったという欲求がかなわなかったストレスがあることを知ってほしいと思います。
どちらにしても、人は生かされているのだと感じています。自分の命も私だけのものではないことを強く感じています。
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