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ケアノート

コラム

[中山庸子さん]父介護する母を支える…東京と前橋の実家往復

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[中山庸子さん]父介護する母を支える…東京と前橋の実家往復

「実家に着いたら、まずこっそり母の元へ行きました。父につかまると愚痴も聞けませんので」(東京都内で)=沼田光太郎撮影

 エッセイストでイラストレーターの中山庸子さん(63)は昨年11月、父 尚郎たかお さんを93歳で亡くしました。認知症の父の介護を担ったのは、母の輝子さん(86)。中山さんは母を支えるため、東京と前橋の実家を往復し、寄り添いました。「私はサポートしただけですが、いい介護の終わり方ができました」と振り返ります。

母と毎晩電話

 父が認知症と診断されたのは2014年8月、92歳の時です。50代から直腸、肝臓、胃といくつものがんを患い、要介護2でした。

 私は東京で自分の家族と暮らしていました。一人っ子でしたから、父をみるのは母一人。父は元体育教師で声が大きく、病気の割には体力もある。認知症となると母が心配でした。前橋に戻ろうとも考えましたが、母は私を心配して、それを許しません。

 そこで、毎晩午後8時半から9時半までを、母と電話する時間に決めました。その日の出来事をその日のうちに話せれば、母の気分も違ってくると思ったからです。いつも話が尽きませんでした。家に認知症患者がいると、一日平穏無事というわけにはいかないものです。

  認知症の診断を受けた尚郎さんは要介護3となり、ヘルパーを頼んだ。中山さんは事あるごとに実家に戻った。新幹線を使って片道2時間半。月2回ほどだったのが徐々に頻繁になり、気づけば週の半分を過ごすようになった。

「昼夜逆転」騒ぎ

 母には「医者と話す時はいて」と言われていました。入退院などは、一人では判断に迷うからです。仕事を前倒しするなど、やりくりをつけて実家に通いました。

 そのうち、優しかった父が、母に暴言を吐くようになりました。「バカ野郎!」が始まると止まりません。どなり声は私の神経にもこたえ、たまに来ている私がふさぎこむほどでした。母はよく耐えていました。

 「昼夜逆転」騒ぎにも困りました。お昼寝して起きたら朝だと思い、郵便受けに朝刊を取りに行くのです。当然、朝刊はなく、騒ぎ出します。時計を見せても午前と午後がわからなくなっていて納得しません。

 母は臨機応変でした。夕刊を取り始めました。「夕刊」の文字を見ると、父も夕方だと納得するのです。日曜は夕刊がないので、母はコンビニで新聞を買ってきて、新聞に「夕刊」と書いて郵便受けに入れていました。

 「(父が)納得したよ!」という母の報告を聞く度にいたわってあげるのは、私の大事な役目だったと思います。

  尚郎さんは15年8月、 誤嚥ごえん 性肺炎で入院。自分のことは自分でする人だったが、ほぼ寝たきりになった。母と娘は、訪問看護師にも入ってもらい、尚郎さんを自宅で 看取みと ると決めた。

最期は自宅で

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(右手前から時計回りに)尚郎さん、輝子さん、庸子さんの夫の孝志さん、庸子さん(2013年7月撮影)

 「最期は自宅で」という本人の希望も強かったのですが、「自宅でみる」という母の意志も固かった。衰えた父の姿を人目にさらさず、元教師の誇りを守ってあげようと、母は考えたようです。

 昨年11月、点滴が始まったと連絡を受け、実家に向かいました。看護師さんから、自宅での点滴になったら、長くないと言われていたのです。駆けつけると、父は元気そうでした。私は一緒に「もみじ」の歌を歌いました。

 「秋の夕日に……」って、父も機嫌良く歌い、その晩はとても静かに眠りました。私はもう1回ぐらい東京に戻れるかなと思っていたのですが……。

 翌日の早朝、母に起こされて父の枕元に行くと、まさに息を引き取ったところでした。全然苦しくなかったんでしょうね。見事な大往生でした。

 尚郎さんにとって自宅は自分の城だった。入院中も常に自宅に戻りたがり、娘の前で腹筋運動をし、「退院できるぞ」とアピールしたほどだ。介護を終えた母娘は、故人の願いをかなえた充実感が強かった。

 私は実家で大したことをしていません。運転免許のない母に代わって買い物をしたのと、父の相手です。私が父につかまっている間は、母が解放される時間になりました。

 父は私が帰る度、テレビ番組を録画した映画を見せました。もてなしだったのでしょう。これが苦痛でした。終わるまでトイレも許されません。ちょっとでも動くと、「見てろ!」って感じで。名作「カサブランカ」は5回も見せられました。

 私は、病気の父を抱えた母を残し、離れて暮らしていることを心のどこかで後ろめたく思っていたようです。でも、私なりのサポートを終えた今、そんなモヤモヤも消えました。大好きな父とこれ以上ない濃密な時間を過ごせたことは、いい思い出です。さすがに「カサブランカ」は当分、見る気になれませんけど。(聞き手・植松邦明)

  なかやま・ようこ  エッセイスト、イラストレーター。1953年、群馬県生まれ。女子美術大、セツ・モードセミナーを卒業。群馬の県立高校美術教師を経て、イラストレーターとして独立。自らの夢をかなえた経験をつづった「夢ノート」シリーズを出版。近著に「実録 家で親を看取る」(海竜社)。

  ◎取材を終えて  中山さんは自分の果たした役割を「中距離介護サポート」と位置づけ、「頑張ったのは母です」と強調する。だが、娘の支えなくして、こんな良い終わり方ができただろうか。わが家も昨年、似た状況になった。妻が飛行機で頻繁に帰省し、介護をする自分の母を支えた。肝心な時にそばにいて、愚痴を聞いてくれる人の存在の大きさ。特に老々介護に携わる人を孤独にしてはならない。その重要さを改めて感じた。

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