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がん患者や高齢者を在宅で診る立場から 新城拓也

さよならを言う前に~終末期の医療とケアを語りあう~

【延命治療】時代とともに変わる治療…揺るぎない信念を探し続ける

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 抗がん剤の治療が始まりました。当然、副作用で体調が悪くなります。本人は、自分が悪い病気だと思わないまま病院に入院し、治療を受ければ受けるほど自分の体調が悪くなるので、当然疑念を持ちます。それでも、私のことを信頼していたこの方は、黙って治療を受け続けてくれました。私はどのようにこの方と向き合ったら良いのか分からなくなりましたが、「この方の信頼を裏切ってはいけない。嘘をつくと決めたら最後まで貫こう」と、「『治りにくい肺炎』で、なかなか治療がうまくいきません」と説明し続けました。説明の度に罪悪感は大きくなっていきました。

 抗がん剤の治療の効果はなく、脳に (ひろ) がったがんはこの方の意識を徐々に奪い、そしてとうとう最期の日を迎えることとなりました。今のように、「人工呼吸や心臓マッサージ」について、患者本人や家族と話し合うこともなく、呼吸が止まる時を迎えたのです。ある夜のことでした。その時、私は既に仕事を終えて帰宅していたので、その場に居合わせることができませんでした。当直をしていた先輩の医師が、呼吸が停止した時から、看護師と共に心臓マッサージと人工呼吸を始めていました。自宅から病院に駆けつけた私は、夫を部屋の外に呼び出しもう人工呼吸や心臓マッサージをしても救命できないことを伝えました。夫は、「ありがとうございました。もう十分です」と言って下さいました。その言葉に私は自分の罪悪感がほんの少しだけ薄らぎ、救われた気になりました。

 本人に病気の真実を告げないことから始まり、治療の選択を患者にさせないこと、最期の迎え方を患者と話し合わないことから、「無意味な人工呼吸や心臓マッサージ」は病院で日常的に行われていました。医師も患者も厳しい真実から目を背け、お互い向き合うことができなかったのです。ホスピスはそんな医療のあり方を、根本的に変えようとする社会運動の象徴でもありました。「本人に正しく悪い情報を伝え、そして本人と治療法を選択する。無意味な人工呼吸や心臓マッサージは行わず、亡くなることに敬意を払い、最期の日々を支える」。私は自分の抱えていた罪悪感をホスピスでの仕事を通じて昇華していったのです。

「縮命」とは? 治療の差し控え、中止、そして安楽死の世界的論議

 あれから15年が過ぎました。今は、患者本人に心の準備がないままに、診察室で「がんです」と告げられることも日常になりました。そして、ホスピスが紹介されるとき患者、家族はもう命の終わりが近いことを医師から説明されています。悪い話もきちんと本人、家族に伝えられるようになった一方で、余りにも簡単に悪い話をされることに、今の患者は戸惑い傷ついています。「初めて会った医師に、まるで『風邪です』と同じような調子で、『がんです』と言われたのです。こんな説明の仕方はあんまりです」と、話す患者に何度も出会ってきました。

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診察室ではこのような様子で、ご家族に病状説明をします

 「末期がんの患者に人工呼吸や心臓マッサージは無意味で蘇生の成功率は0%」と書いた教科書を見ました。そのように患者や家族に説明する医師も多くなってきました。確かに、寝たきりとなり身体にもう力が残っていないのに、人工呼吸や心臓マッサージを含む延命治療を行っても無意味です。例え蘇生に成功しても、患者は蘇生直前の状態に戻るに過ぎません。人工呼吸や心臓マッサージが、再び患者に歩く力を与えることも、食べる力を与えることもありません。

 しかし、こんな論文もあります。病院内で心肺停止したがん患者1707人のうち、人工呼吸や心臓マッサージを行い退院が可能となった患者は全体の6.2%だったと報告されています( http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/?term=16987581 )。 つまり、「がんの患者の蘇生成功率は0%」ではないのです。近いうちに亡くなると予想されていなかった患者が、何らかの原因で急変した場合には、人工呼吸や心臓マッサージすることで、意味のある救命ができるかもしれないのです。患者によっては人工呼吸や心臓マッサージ、つまり延命治療も必要な治療なのです。個々の患者に最適な治療をホスピスは配慮できるのでしょうか。入院する前に延命治療を実施しないことを約束し同意した患者は、ホスピスで十分な治療を受けられない可能性があるのではないか、最近私はそんな風に考えることもあります。

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さよなら・その2-2-300-300シャドー

さよならを言う前に~終末期の医療とケアを語りあう~

 終末期医療やケアに日々、関わっている当事者や専門家の方々に、現場から見える課題を問いかけて頂き、読者が自由に意見を投稿できるコーナーです。10人近い執筆者は、患者、家族、医師、看護師、ケアの担い手ら立場も様々。その対象も、高齢者、がん患者、難病患者、小児がん患者、救急搬送された患者と様々です。コーディネーターを務めるヨミドクター編集長の岩永直子が、毎回、執筆者に共通の執筆テーマを提示します。ぜひ、周囲の大事な人たちと、終末期をどう過ごしたいか語り合うきっかけにしてください。

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2件 のコメント

ある年齢になれば人間は死ぬべき

生きるということを真剣に考える男

私は現在68歳です。想定しているのは80歳寿命で,それ以降生きたいのであればすべて自分の負担で生きるべきだと思います。 延命・寿命の問題の論議で...

私は現在68歳です。想定しているのは80歳寿命で,それ以降生きたいのであればすべて自分の負担で生きるべきだと思います。

延命・寿命の問題の論議で一番欠けているのはお金の問題です。ほとんどの評論家,政治家,マスコミなどは,患者に出来るだけ寄り添い,出来るだけの治療を行う,などキレイゴトだけ述べています。

人間空気だけでは生きて生けません。病気になり,入院,寝たきりになれば,ベット代,治療費,薬代,生活費などすべてお金がかかります。医療費にしても本人は2割負担,3割負担ですが,残りの7割,8割は誰が負担しているの?国ですか?違います。国は一円も負担していません。若い勤労者が税金,厚生年金の形で負担しているのです。

高齢者の治療に膨大な税金を注ぎ込む意味はありますか?貴重な税金は現役世代の若い人が生活しやすいように使うべきです。

ある年齢になれば人間は社会への役目を終えたのです。生きたいのなら自分のお金で生きるべきで,国(正確には国ではなく若い人)に頼るべきでないです。

自然界では最強のライオンは元気なうちは誰もかないません。しかし老化で一旦餌が取れなくなったり,動けなくなれば,直ぐにはハイエナやハゲタカに食べられて死にます。これが生きると言うことで一番自然なのです。

この前もテレビでガンの最新医療薬についてたいへん高額のため,保険適応では国家が破綻すると日赤の医師が警告していました。

団塊の世代は68歳前後でまだ元気です。しかし健康寿命は73歳ぐらいを言われており,5年後の2020年以降は寝たきり,介護を必要とする老人は急増するはずです。誰が支えるの? 具体的に言えば誰が増大するそれらの医療費を負担するの? あと5年もすればすごい社会になると思います。

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本人の自己決定権

フンボルト

終末期医療を考えるにあたっては本人の自己決定権が一番重要だと思います。 もしも自分が明日、1週間後、1年後に死ぬと分かっていたら、今と同じことを...

終末期医療を考えるにあたっては本人の自己決定権が一番重要だと思います。
もしも自分が明日、1週間後、1年後に死ぬと分かっていたら、今と同じことをしているでしょうか。いいえ、仕事なんか放り出して有り金はたいて遊んだり、旅行をしたり、友人に会いに行ったり。それが生き方の自己決定権です。人は医師の治療さえ拒むことができる、エホバの証人事件で最高裁が下した結論ではなかったでしょうか。
だから、医師はやはり患者に対してそれを行使させるべく判断に必要な情報は伝えるべきでしょう。その点、神に召されるのを定めとする欧米と違って日本人は死への覚悟が希薄で往生際が悪い傾向がありますが、それに医師が惑わされてはいけないと思います。
そして本人が何かを選択することがなくなり死を受け入れるだけとなったとき、あとは時間の経過を見守るだけですからここからはホスピスの領域で延命治療は無用だと私は考えます。何時死ぬかは既に無価値であると言えましょう。
そういう考えで私が老齢の両親を看取ったとき、胃ろうや経管栄養チューブ、気管切開、人工呼吸は望みませんでした。ただ一つお願いしたのは、最後に声をかけるため家族全員が集まるまでアドレナリンで命を繋ぐことだけでした。

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