高齢者の終末期を病院で診る立場から 宮本顕二・礼子
さよならを言う前に~終末期の医療とケアを語りあう~
【延命治療】この生命は誰のもの?
テーマ:「延命治療」とは何か? 無意味な治療と必要な治療を分けるもの
私たちは、無意味な治療と必要な治療を分けるものは、治療の結果、本人の生活の質 (Quality of Life:QOL)がどう変わるかだと思います。
まず、今回のテーマは、誰にとって無意味な治療か必要な治療かをはっきりさせなくてはなりません。
80歳の男性患者さんは、アルツハイマー病が進行して食べ物を飲み込むことができなくなりました。意思の疎通もできません。アルツハイマー病の終末期です。私は、点滴や経管栄養(鼻チューブや胃ろう)をすると、何もわからない状態で寝たきりになり、 痰 の吸引などで苦しむため、自然に亡くなる方が良いと家族に説明しました。しかし、奥様と娘さんは「生きていてほしいから」と胃ろうを作ることを希望し、胃ろうを作ることができる病院に転院しました。
この場合、私は、胃ろうを作ることは、本人にとって無意味な治療と考えました。それは、胃ろうからの栄養で延命することはできても、その間、本人は苦しむことになるからです。一方、家族は、本人が生きていることが自分たちにとって意味ある治療と考えました。このように、誰を中心に考えるかで、治療の意味は変わります。しかし、言うまでもなく、治療は本人を中心に考えるべきです。
このことを、先日「この 生命 誰のもの」という演劇を観て、私はますます確信しました。
原作は、イギリス人のブライアン・クラークで、1978年にロンドンで初演され、翌年から日本でも上演。87年からは、浅利慶太さん脚色で日本に舞台を置き換えて、繰り返し上演されています。
あらすじをプログラムから転載します。
「彫刻家・早田健は、不慮の事故で首から下が全身麻痺となってしまう。明晰な頭脳と鋭い感性に恵まれた早田にとって、創作活動を奪われ、話すことしか出来ない未来は、もはや苦痛でしかない。そこで彼は、このまま治療を続けるくらいなら、自ら死を選択する方が正しいと考えるようになる。それに対して病院側は、『医の倫理』に従って早田の要求を退ける。『死の権利』か『医の倫理』か。両者の主張は一歩も譲らず、ついに病室で異例の裁判が開かれることになる」
生命は本人のもの、本人以外の誰のものでもありません。
本人を中心に考えると、無意味な治療と必要な治療を分けるものは、治療の結果、本人のQOLがどう変わるか、です。医療の目的はQOLの向上であるので、QOLが低下するならば無意味な治療、QOLが向上するならば必要な治療です。アメリカの有名な医学教科書(ハリソン内科学)にも、「すべての治療は利益と不利益(負担)を持っており、個々の患者にとり、負担が利益を上回る時は、どのような治療も行うべきではない」とあります。
そういう意味で、終末期の高齢者に対する「延命治療」は無意味な治療です。デジタル大辞泉によると、「延命治療は 快復 の見込みがなく死期の迫った患者に、人工呼吸器や心肺蘇生装置を着けたり、点滴で栄養補給したりなどして生命を維持するだけの治療」と記載されています。終末期の高齢者に延命治療を行えば、QOLは向上するどころか、逆に低下します。
しかし、回復の見込みがないかどうかは、治療しないとわからないこともあります。このことが、終末期医療の問題をより難しくしています。
92歳の女性の入院患者さんは、アルツハイマー病が進行して、寝たり起きたりの生活でした。食事は自力で少量食べ、簡単な会話はできました。ある時、症状は何もないのに、血液検査で肝機能が悪くなっており、コンピューター断層撮影法(CT)で総胆管に大きな石が見つかりました。石を取らないと胆管炎を起こし、数日後に亡くなるのは必至です。しかし、この石を取るためには、胃カメラを飲んで、胃カメラの先端から石を取らなくてはなりません。
本人は治療の意味もわかりません。治療が苦痛を与えることは明白でした。また、老衰が進んでおり、治療自体が死期を早める危険性もあります。本人は苦痛もなく過ごしているので、石を取るかどうかで私は迷いました。消化器内科医の息子に相談すると、「取らないと死ぬので取るべきだ」と言います。娘さんは「取らないと死んでしまうなら、取ってください。例え治療で死んでも、それは仕方がないことです」と言いました。そのため、ある総合病院に移りました。
結局、石は取れませんでした。背骨が極端に曲がっていたので、胃カメラの操作が難しかったそうです。その後、患者さんは胆管炎を起こし数日の命となり、私は「ただ、苦痛を与えてしまった」と、転院させたことを後悔しました。10年も診てきた患者さんなので、当院で 看取 ってあげたいと思い、お見舞いに行きました。娘さんも当院に戻ることを望み、その日のうちに連れて帰ってきました。なじみの職員と家族の笑顔の中で、ヤクルト、アイスクリームを食べて、「もうダメ、葬式をして」と言いながら、2週間後に眠るように亡くなりました。
このように、助かるか助からないかは、治療してみないとわかりません。医療は過少でも過剰でもないことが理想ですが、現実には迷うこともたくさんあり、終末期医療において治療の選択はなかなか難しいです。
しかし、忘れてならないことは、医療は本人のためにあるということです。その当たり前のことを我々は肝に銘じなくてはなりません。
皆さんは、「自分たちのために生きていてほしい」という家族の延命希望を、どう思いますか?
◇
【略歴】

宮本顕二(みやもと・けんじ) 北海道中央労災病院長、北海道大名誉教授。
1976年、北海道大卒。日本呼吸ケア・リハビリテーション学会理事長。専門は、呼吸器内科、リハビリテーション科。「高齢者の終末期医療を考える会」事務局。

宮本礼子(みやもと・れいこ) 江別すずらん病院 認知症疾患医療 センター長
1979年、旭川医科大学卒業。2006年から物忘れ外来を開設し、認知症診療に従事。今年7月から現職。日本老年精神医学会専門医、日本認知症学会専門医、日本内科学会認定内科医、精神保健指定医。「高齢者の終末期医療を考える会」代表。
【関連記事】
本人も周囲も苦しいだけなのに…
ポニョ子
まさにおっしゃる通り、と思いながら拝読いたしました。当方、二十年ほど前にアメリカのホスピスでボランティアをしたことがあります。「治療」は一切なし...
まさにおっしゃる通り、と思いながら拝読いたしました。当方、二十年ほど前にアメリカのホスピスでボランティアをしたことがあります。「治療」は一切なしで、苦痛の軽減にモルヒネを必要に応じて使用するだけでしたが、入所していた人々(患者(patient)ではなくゲスト(guest)と呼ばれていた)の多くは穏やかに最期の日々を送っていましたし、たまに訪れる家族の皆さんも身内の死を受け入れているようでした(当然、そうだからこそホスピスという場所に家族を入所させることができるわけなのですが)。半年間の滞在中、十数人の方が亡くなりましたが、私の知る限りではあまり苦しそうではありませんでした。モルヒネのおかげで、というケースもあったと思いますが、食事を拒否するようになってから(無理やり食べさせたりしませんし、「胃ろう」や点滴なども一切なしです)数日以内に息を引き取るような感じでした。
ホスピスは日本であまり浸透・普及していないようですが、一体なぜなんだろうと思います。上に述べたような、ちょっと乱暴な言い方かもしれませんが「死に方」のほうが、本人にも、家族にも、おそらく医師にとっても負担がものすごく少なくなるであろうはずなのに。本人も家族も苦しくなるだけの選択をする人が多いのは本当に、本当に切実に疑問でなりません。考え方を根本的に変える必要があるのではないかと思います。まさに、「この生命は誰のもの?」です。家族が望まない延命治療をしている人に、ホスピスで苦しまずに死んでいった人々のことを教えてあげたいくらいです。私はまだ40代ですが、自分に残された年月が少なくなるころまでには、日本の終末医療の状況が改善されていることを心から願っています。
つづきを読む
違反報告
延命治療は、、、
埼玉のシニア
家内が4月25日に誤嚥性肺炎で緊急入院。それまでは老人ホームでご厄介になり8年、病名はアルツハイマー病。発祥以来19年。 入院で医師から今後の治...
家内が4月25日に誤嚥性肺炎で緊急入院。それまでは老人ホームでご厄介になり8年、病名はアルツハイマー病。発祥以来19年。
入院で医師から今後の治療方法について説明があった。以前から胃ろうについて考えていましたが、私の考えは治療をして完治したり改善が図られたり、またそうならないまでも半分でも回復して、人間らしく会話ができ、食事して、喜怒哀楽が顔に出るなら、どんな治療でもするけれど、アルツハイマーの場合は、回復改善は不可能であると知っていたので、胃ろうもせず、栄養剤を血管に入れるだけにしました。
ただ、飲み込みが悪いと言っても食べることの人間性を確保したいと、ほんの少しの固めの栄養ゼリーを少々食べさせることにしました。
会えば愛しく、テープの演歌を聞かせ、会話をして、私だよと声をかけ、涙を抑えて看病しています。せめて毎日行ってあげることで、旦那としての役目を保っています。
どんな治療にも反省が出てきますが、私はこれで良しと決意して、後は神の手にゆだねたいと考えているのです。本人も納得のはずです。
つづきを読む
違反報告