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ケアノート

医療・健康・介護のコラム

[相田洋さん]母の介護映像、番組に…ディレクターとして客観視

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[相田洋さん]母の介護映像、番組に…ディレクターとして客観視

「笑顔を撮りたい、本音を聞き出したい、と考えながら話しかけていたので、会話が増え、信頼関係ができました」(東京都内で)=安斎晃撮影

 元NHKディレクターの相田 ゆたか さん(80)は2011年、母のフイさんを100歳で亡くしました。介護の様子を自ら撮影した映像は番組化され、評判を呼びました。相田さんは「撮影しながら介護したことで、客観的な被写体として、ありのままの母を受け入れることができた」と振り返ります。

 私が朝鮮半島で生まれた後、私たち一家は満州(現中国東北部)に移り、弟2人が生まれました。父は召集され、終戦後、母は私たち3人を守り、1946年秋に日本に連れ帰りました。私は長男としてその苦労を最もよく知っています。だから、母が高齢になったら、自分が世話をしたいと考えていました。

 76年に父が亡くなり、母は東京都内で一人暮らしをしていたのですが、87歳の時、ある騒動がありました。母の隣人から「フイさんが高額の小切手を持って相談に来た」と連絡を受けたのです。駆けつけた私はわけを尋ねたのですが、母は悲しそうに「わからないの」と答えるだけ。この日の母のメモ帳を見ると「ボケは悲しい。頭の回転悪し」と書いていました。

 この時、フイさんは自分の預金すべてを都銀から地銀に移し、さらに全額を小切手に換えて自宅に持ち帰っていた。病院で精密検査を受けさせたところ、異常はなく、「脳は年相応」とのことだった。

骨折を機に同居

 母はその後も、ガスレンジの火を服に燃え移らせたり、炊いたご飯を放置して腐らせたりするようになりました。転倒して足を折り、歩けなくなったのを機に、私と妻は2005年、介護のため、母と同居することになったのです。妻は私を「マザコン」呼ばわりしながらも、一緒に取り組んでくれました。

 母は帯状 疱疹ほうしん を発症した後、後遺症のため、食欲が落ちてきました。のみ込みやすい流動食をと、私が作ったのは、長芋と牛乳のスープです。大量に作って凍らせておき、朝食に出すようにしました。元気がない時は生卵を入れたり、衰弱している時には生ウニを加えたり。このスープと薄切りのトーストが、母の定番の朝食となりました。

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白寿を迎えたフイさんと相田さん(2010年4月撮影、相田さん提供)

 「食べてくれない」と悩むより、「どうやって食べさせようか」と自分流の解決方法を発案することを楽しめれば、それが一番です。達成感も味わえます。かつてディレクターだった時、「どうすればわかりやすく映像で説明できるか」と考え、解決した時と同じ喜びを感じることができました。介護の中に見つけた楽しみの一つです。

職業本能で撮影

 フイさんは、漏らした大便を素手でつかみ出す「 弄便ろうべん 」の習慣があった。相田さんが、衰えゆく母の撮影を始めたのも、排せつ物の後始末がきっかけだった。

 同居する少し前、洗面所とトイレに漏らしたままの衣類が脱ぎ捨てられているのを見つけました。その時、「いつもと違うことが起きた」と、とっさにカメラを回しました。放置された衣類や母を撮影したのです。当時、私はフリーランスのディレクターとして働いていました。

 別の日も同じことがあり、カメラを向けると、母は「私の頭の中はどうなっているんかねえ」とつぶやくのです。衰えを自覚し戸惑っていたようでした。

 このように、いつもと様子が違うと思ったら、テーブルなどに固定してカメラを回してから、介護するようにしました。映像を発表する意図はなく、「とりあえず、この異常な場面を撮っておこう」という職業本能からでした。撮った映像のうち、編集して保存したものは100時間分ほどにもなります。

 便の後始末は週1回ほどありましたが、苦になりませんでした。むしろ「なかなかいい場面が撮れている」という、満足感で気持ちが楽になりました。

ありのままを

 11年1月、フイさんは 誤嚥ごえん 性の肺炎で入院。転院を重ね、3か所目の病院で8月に亡くなった。フイさんの姿を記録した映像が、NHKスペシャル「母と息子 3000日の介護記録」となって放送されたのは、2年後の13年だった。

 映像はDVDにまとめ、近況報告のつもりで元同僚に渡してあったのですが、これが番組担当者の手に渡ったのです。思いがけないことでしたが、反響もあり、制作者としてはうれしかったです。

 母は、戦後の混乱期の死線を越えて、私たち兄弟を満州から日本に連れ帰ってくれた気丈な人です。でも、最後は自分の排せつの始末すらできないようになりました。もの忘れや失禁をする母を見るのは悲しく、「ああ、動物に変わっていくようだ」と切ない思いがしました。

 しかし、老いは生物の仕組みです。拒否できません。「このような振る舞いを含めて、これが母なんだ」と、ありのままの姿を受け入れるよう常に意識してきました。介護には大切な心構えだったと思います。(聞き手・吉田尚大)

  あいだ・ゆたか  1936年、朝鮮半島(現在の韓国)生まれ。60年にNHKに就職し、ディレクターとしてNHKスペシャル「電子立国 日本の自叙伝」「マネー革命」などを制作。2000年に紫綬褒章受章。介護の様子をまとめた著書「わが母 最後のたたかい」(NHK出版)が15年に出版された。

 ◎ 取材を終えて  NHKの番組「核戦争後の地球」を見たのは中学生の頃。広がる炎や荒れ果てた地上の映像が今も記憶に残っている。制作した相田さんは「核爆発を映像化する方法」を考え、実現した時、職業的な満足感を覚えたという。介護にも「問題設定と解決」の手法を持ち込んだ相田さん。母親が健康に過ごせ、自分にも負担が少ない介護方法に工夫を重ねた。今後、介護を担う働き盛りの世代も増える。一つの参考になりそうだ。

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