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外傷後成長(PTG)研究者の開浩一さん

編集長インタビュー

開浩一さん(2)交通事故で頸椎損傷 19歳で車いす生活に

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車を改造し、どこへでも運転して移動する開さん

 退院は、作業療法士の一言がきっかけだった。障害を持っても運転できるように、運転免許センターでの手続きに付き添ってくれるなど、親身に相談に乗ってくれる先生だった。その人がある日、「開くん、大学に戻らんね」と復学を勧めてくれた。

 「関東の大学でもあるし、戻るなら一人では難しいから母親にもついてきてもらわなくてはいけないし、経済的にも大変だろうし、最初は 躊躇(ちゅうちょ) したんです。それでも先生が積極的に勧めてくださって、戻ろうと決心がつきました。5年、10年と長期入院している先輩たちがいて、病院が住む場所になっている障害者も多かった時代です。最近、先生に再会したら、『あれは賭けだった』とおっしゃっていました。『大学に戻るのは厳しいと思ったけれど、戻ったら何とか道はひらく。何とかその後の道をつないでいくんじゃないかと、君に賭けた』と」

 その後のリハビリは、車いすの操作や一般住宅の風呂の入り方、車に車いすを乗せる方法など、病院の外での生活に即したものとなり、加速した。具体的な目標が定まった分だけ、リハビリにも積極的になった。大学近くに一軒家を借りて母と一緒に引っ越し、大学に戻ったのは事故から1年たった4月だった。

 「えらく恐ろしかったですね。当時はバリアフリーという考えもないから、教室に入るにも2、3段階段があって、2階、3階の教室だと、誰かに車いすを抱えて運んでもらわなければいけない。グライダー部の仲間が助けてはくれましたが、ずっといるわけではないので、見知らぬ誰かに頼まなくてはいけない。面倒くさそうに手を貸してくれる人もいるので、人にお願いすることが苦痛に感じられました」

 そして当時、なんといっても苦しかったのは、自分が「障害者」と呼ばれる存在になったことだった。

 「事故に遭うまでは何の特徴もない普通の男子で、日大理工学部、グライダー部所属ぐらいの肩書しかなかった。しかし、車いすで通うようになると、もう一つ、障害者という肩書が加わった。見える風景も違うし、当然目立つので、障害者としての人生になってしまったということをひどく痛感しました。それまで自分が抱いていた障害者像は『かわいそうな人』であり、ネガティブなイメージで、その『かわいそうな障害者』に自分がなってしまった。人とは違う存在となったというショックをあのころは感じていました」

 「今は街中に出てもそんな意識はしないし、あのころの自分を振り返ると、そこまで背負い込まなくてもといいのに、思います。でも、それも通過点というか、そう思う時期を持つのも大事なんだろうとも思います。今の自分はあのころの自分に『車いすでも何とか楽しく生きていけるから、大丈夫よ』と言ってあげたいですね」

 人の視線を受け、健常者である同級生と自分を比べ、改めて、障害を持ってどう生きていけばいいのか悩み始めた。これからの人生を模索する時に、先輩たちがどう生きているのか知りたいと、切実に願った。

 「自分の生き方は自分で探していかなければならないと思いました。健常者の学生仲間に聞いてもその問いの答えは返ってこない。当時はピアカウンセリング(当事者仲間によるカウンセリング)が流行し始めた時期で、都内の障害者団体が開いたピアカウンセリングの研修会に参加したのです。そのつてで、様々な障害をお持ちの方を訪ね歩きました」

 そうして出会った障害者の中に、障害を持った後に結婚し、市営住宅で暮らしている車いすのご夫婦がいた。

 「朗らかで、一緒に笑って食事をして、普通に地域で暮らしていけるんだとイメージができたんです。その後に会った人たちも、住宅改造をして、一人暮らしをしている人も結構いた。それを見ていくと、ああ自分も大丈夫なんだなと安心感が芽生えていきました」

 その後、その団体とともに、駅やバスをバリアフリーにする運動にも参加した。車いすの数百人で駅に大挙して、階段の上り下りで、駅員に何度も車いすを運んでもらう。そのうちエレベーターを設置する駅も少しずつ増えていった。こうした障害を持つ仲間との交流で、ある新たな目標が芽生えていった。

 「やはり、福祉のことを考えなくてはいけないと思ったのです。バリアフリーを実現しなければならないと。車いすになって1年半ぐらいでしたが、いろいろな方のお世話になったので、今度は自分が誰か同じような障害を持っている人や、苦しい思いをしている人に恩返しをしたいと思うようになったのです」

 振り返ると、それが開さんにとって、PTG(外傷後成長)の訪れだった。

 「私の中での最初のPTGはたぶんそのあたりでした。大学に戻るようにリハビリの先生に勧めてもらったり、大学に受け入れてもらったり、障害を持つたくさんの仲間と出会ったり、いろいろ経験させてもらったから、意外と早い段階で現れたのだと思います」

 その頃、機械工学の授業は、手先を使う実習ができないこともあり、限界を感じ始めていた。グライダー部にも変わらず参加し、仲間と一緒に行った合宿でグライダーにも乗せてもらったが、自分の同級生がはるかに上達している姿を見て、あきらめがついた。

 1991年に退学。離ればなれになっていた家族のもとに再び戻るため、諫早市で福祉の学部がある長崎ウエスレヤン大学を受験して、入学した。新たな可能性に向けて、一歩を踏み出した。

 (続く)

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岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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