岩手県陸前高田市で医療復興の活動を続ける石木幹人さん
編集長インタビュー
石木幹人さん(4)震災5年 胸に生きる妻とこれからもこの地で
東日本大震災から丸5年が
メンバーのお年寄りと共に減塩の大事さを訴える演劇を披露し、減塩の献立を栄養士と一緒に作って、皆で食事会を開いた。
「これまで何度も生活習慣病予防について講演をしてきたのですが、専門家の話だけだと全然響かないのですよね。自分たちでやってみたり、仲間が演じているのを見たりすれば、ずっと楽しいし、ずっと心に届くんだね」
「はまらっせん」とはこの地方の言葉で「いらっしゃい」という意味で、仮設住宅のそばに作られた共同農園の事業だ。震災直後の2011年9月、北海道から応援医師として高田病院にやって来た内科医の高橋祥さんが発案し、当初は高田病院の健康事業として始まった。
仮設住宅暮らしで閉じこもりがちになり、生活習慣病を悪化させているお年寄りが、「畑が流されてやることがない」と診察の場で訴えるのを聞いた高橋さんが、仮設住宅の近くに畑を借りることを思いついた。医師である自分が関わるには、仮設住民の病気予防や生きがい作りを目的とした病院事業としてやりたいと、当時院長だった石木さんに相談。やはり、仮設住民の孤立と運動不足を懸念していた石木さんは、「それは素晴らしい。ぜひやってください」と後押しをした。
「自分も仮設住宅で暮らしているからわかりますが、あの中でずっと過ごしていると、何とも言えない暗い気持ちになりますね。生活不活発病の予防や、仮設住民の生きがい作りについて、いいアイデアが浮かばなかった時でもあり、提案を大歓迎しました。高橋先生が麦わら帽子をかぶって病院の外を走り回っていたり、畑の切り株を掘り起こすために重機を動かす免許を取りたいと相談されたりした時はどうなることかとも思いましたが、住民の生活から健康を考えようとしてくれる医師がいることを頼もしく感じていました」
当時は、全国から数か月単位の短期交代で応援医師が入り、内定していた米国留学を蹴ってまで「被災地のために尽くしたい」と意気込んでやってきた高橋さんは、自分がここで何をすべきなのかを見いだせないでいた時だった。診療時間以外は、土地の所有者と交渉し、お年寄りに声をかけて共に耕す活動を熱心に続けるうちに、「はまらっせん農園」は仮設住宅13か所に増え、約100人もの高齢者が日々畑に出るようになった。参加者は「生活充実感」や「生きる意欲」が上がるばかりか、骨粗しょう症の予防にも効果がありそうなことまでわかった。
この日、北海道からはるばる健康教室に参加した高橋さんは、「石木先生は震災前から、『地域の高齢者を健康にするには、医療者が地域に入って、草の根運動的に関わることが大事だ』と、健康教室などを実行していた先生です。はまらっせん農園も、石木先生の高田病院だったからこそできた。先生は大病院の呼吸器外科医としてばりばり働いていた時に、へき地の院長として赴任され、仕事でのやりがいを見つけづらい状況だったはずです。でも、すぐにここで望まれている役割を考えて、高齢化の進む陸前高田の医療の立て直しに取り組まれた先生です。震災後の、応援医師たちにも『医療がしっかりしないと、人は地域から離れていく。だから医療者が頑張らないと、復興はできない』とことあるごとに話され、その姿勢は、自分の陸前高田での仕事にも大きく影響を与えてくれました」と話す。
約3年半、高田病院で働いた高橋さんは2015年3月で故郷の北海道に帰ることになった。「はまらっせん農園」は、農園でのつながりを基盤にして、参加者自らが健康増進に取り組む「はまらっせんクラブ」に発展し、石木さんが会長となった。
医療、福祉、介護関係者で作り、やはり自身が会長を務める「チームけせんの和」の「劇団ばばば☆」に、「はまらっせんクラブ」のお年寄りを参加させることを提案したのも石木さんだ。
「はまらっせんクラブ」は、高齢者の健康作りに効果があると評価され、来年度も県の事業として補助金が出ることが決まった。新しく建設された復興公営住宅にも「はまらっせん農園」が誕生する。市も介護予防事業として注目し、民間団体も市内で同様の農園事業に乗り出し始めた。
石木さんに事業を引き継いだ高橋さんは、「石木先生は人を
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