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岩手県陸前高田市で医療復興の活動を続ける石木幹人さん

編集長インタビュー

石木幹人さん(3)地域医療の再建 震災影響で認知症も増え

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石木幹人さん(3)地域医療の再建 震災影響で認知症も増え

5年間の医療復興の歩みについて語る石木さん

 震災の翌月、岩手県立高田病院は、スタッフの避難所兼救護所としていた米崎コミュニティーセンターで、本格的に一般診療を再開した。3月下旬には、震災直後から自身も被災者なのに休みなしで働いていたスタッフに休暇を取らせ、4月4日に改めて全員集合した。震災前に行っていた一般検査はほぼすべてできるようになり、調剤薬局も備えた再出発だった。その頃には、地元の開業医や外からの応援医療者により、市内7か所で八つの救護所が運営されていたが、その中心となる高田病院の本格再開だった。

 「同じ医療圏の中で、高田病院で受け入れられない患者が殺到して疲弊している基幹病院、大船渡病院の負荷をどうにかしなくちゃいけないというのが、自分の中ではかなり大きな課題でした。高田病院で一般診療を再開するには、検査と薬局が欠かせない。だから検査科と薬剤科のスタッフの尻をたたいて、鬼のような院長だったと思います」

 陸前高田と盛岡を何度も往復しては、行政と事務手続きを急ピッチで進め、検査科のスタッフと検査機器を集めるのに奔走した。調剤薬局を作るために、薬剤科のスタッフや薬剤師会と話し合いを繰り返した。

 「当時は、『なんでこんなに時間がかかるんだ!』と腹を立てていたけれど、今振り返れば、あの震災から1か月足らずで一般診療を再開するなんてすごいことだった。大船渡病院の外来数も、4月には震災前とほとんど同じぐらいに落ち着いたのです。地域医療は、一つの病院のことだけを考えたらいいわけじゃない。地域全体のそれぞれの病院の役割や負担のバランスも考えなくちゃいけない。だから、みんなでよく頑張ったなと今は思いますね」

 再集結の日に、病院のスタッフ全員で、これからどういう診療を目指していくのか、グループに分かれて話し合いをした。当面の活動方針として、〈1〉入院機能を持つ仮設病院の早期再建〈2〉訪問診療の充実〈3〉住民の健康管理(保健師活動)への参加〈4〉心のケアの充実――の四つを大きな柱と決めた。どのグループも共通して掲げた目標は、「入院機能を持った仮設の病院」だった。

 「みんなが入院機能を必要だと思っていることを最初に確認したから、その後、自分がこの件で、ぶれることは全くありませんでした。必ずそういう病院が立ち上がるに違いないし、絶対に造ってみせると思っていました。県の医療局にも度々通い、高田病院は入院機能のある仮設の病院にしてくれないとだめだと訴え続けました」

 陸前高田市役所には、被災していない地区で仮設病院が建設できる広さの土地を探してもらうよう交渉し、7月には、コミュニティーセンターとは別の場所にプレハブの仮設外来棟がオープンした。

 診療の本格再開直後から、車を流されるなど足がなくて通院できない高齢被災者のために、「自宅を病室に」を合言葉に、訪問診療を始めた。寝たきりの母親と妻を自宅で介護していた70代の男性が、訪問診療に来た石木さんに「仮設病棟ができたら、入院させるから。それまで頑張って」と励まされたというエピソードが残っている。

 震災の被害を受けながら、自宅で老々介護を続け、疲れ切っていた高齢者。その人たちとの約束を守りたいと、県や周囲の病院関係者と話し合いを重ね、10月の県議会で、県知事が「高田病院は有床の仮設病院にします」と宣言した時は、スタッフで祝杯を挙げた。

 翌年2月、41床の仮設病棟が完成し、入院患者の受け入れが始まった。市役所でも多くの保健師が亡くなったため、全戸を訪問して住民の健康状態を調べる保健師活動に、高田病院の看護師も参加させた。病院に専用のリハビリ室を作り、震災前に思い描いていたリハビリの充実にも本格的に取り組み始めた。

 「震災が起きても、直前に発令された人事は生きていたから、リハビリのスタッフも5人は確保できていたのです。彼らは、入院病棟がない間は、仮設住宅に出向いて、運動不足になっているお年寄りの訪問リハビリをしっかりしてくれたし、引きこもりにならないように運動を指導する仕事もしてくれた。病院で仕事ができない期間も、住民の健康維持のためにかなり貢献してくれたのです」

 開業医と連携して、訪問診療を充実させるホットツバキシステムも、病棟の完成数か月後には患者登録が始まった。

 震災前に開設を考えていた認知症外来も、間もなくスタートした。避難所にいた住民が仮設住宅に移り、仮設での生活が長くなってきたころから、石木さんは、認知症患者がじわじわと増えてきているのを感じていた。

 「もちろん加齢に伴う自然な機能低下もあるのですが、被災に伴う精神的なストレスがきっかけになっていると思える患者さんも中にはいるのです。連れ合いも含めて、今まで一緒に住んでいた人が亡くなったり、老後の面倒をみてもらうつもりだった娘が亡くなったりした場合はかなり厳しいですよ。別の子どもにみてもらおうとしても、そりが合わなくて落ち込んでしまう。ほかにも、例えば趣味の踊りや歌のサークルに入っていたお年寄りが、慕っていたお師匠さんが亡くなってしまって、やる気をなくしてしまうことがありました。ほかのサークルを勧めても、そのお師匠さんでなければだめなのですね。かけがえのない存在を失ったショックは、それまで認知症になるのをかろうじて押しとどめていた大きな支えを、ぼろっとはいでしまったのです」

 さらに、生活環境の大きな変化も、認知症の増加に影響している印象を受けるという。

 「大家族で暮らしていた高齢者は、大人数で住める仮設住宅がないので、若い人と別々に住むことになってしまった。すると、高齢者だけではなかなか動けないから、引きこもりがちになる。また、高齢になると、新しいことをなかなか覚えられないので、トイレや電気のスイッチの場所が変わったとか、扉が引き戸に変わったことなどで戸惑っていると、家族に怒られてしまいます。特に水洗トイレの流し方が覚えられなかったりして、そのままにしておくと『ばあちゃん、汚ねえ』とか言われる。新しいことを覚えなくてはならないストレスに、周りに非難されるストレスが重なり、そのうち『帰る』というようになる。『どこに帰るの?』と聞くと、昔うちがあったところに行って、『ほら、ないでしょう?流されたのよ』と突きつけられ、絶望的な気持ちになって仮設に戻る。そういうことが重なることで、認知機能が悪化しやすいという状況が被災地にはあるのだと思います」

 診療が再開してからしばらくは、患者の医療情報がないことにも苦労した。津波でカルテがすべて流され、患者は予想以上に、自分の飲んでいた薬も病気の経過も覚えていない。医師らは、問診に時間をかけて、患者の医療情報の掘り起こしを行った。

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「高田の人たちが安心して暮らせるようにしたいっていう思いは震災後にますます強くなりましたね」と話す石木さん

 診療の立て直しの合間、石木さんは、病院で亡くなった全ての患者やスタッフの家族の訪問もした。

 「父は詳しく語らないのですが、ご家族の中には父の責任を厳しく問う人もいたそうです。なぜ助けられなかったのかと。院長としてできたことがあったのではないかと。そういうことも父は一人で受け止めて回っていました」と娘の医師、愛子さんは振り返る。

 診療が大幅に縮小したため、当初看護師の半数は、大船渡病院に一時的に配属されていた。「自分は高田病院に戻れるのか」。不安を抱えるスタッフに、「いつか必ず戻ってもらうから」と、声をかけて安心させるのも院長である石木さんの役目だった

 高田病院のスタッフは、米崎コミュニティーセンターから近くの住田病院2階に住む場所を移し、そこで6月いっぱいまで共同生活を営んでいたが、7月には、仮設住宅に移動。石木さんも、愛子さんと一緒に西和野の仮設住宅に入った。病院スタッフと共同生活を送った時は、食事もベテラン主婦のスタッフが作ってくれたりしていたが、仮設での生活が始まると、石木さんは家事も始めるようになった。愛子さんはこう語る。

 「それまでは母がすべて家事を引き受けていましたから、忙しい仕事の合間に家事を覚えるのは、きっと大変だったと思います。夜ご飯は私が作りましたが、朝は父が用意しました。食べるのも飲むのも好きな人ですから、料理の本を見ながら、みそ汁を作ったり、おからを煮たりしていましたね」

 昼ご飯は弁当の宅配サービスが間もなく始まったが、弁当も自分で作るようになった。

 「外食する場所もないし、配達の弁当を頼んだら揚げ物が多くて胃もたれしてしまって、弁当を自分で作るようになりました。大学の頃は自炊をしたこともないわけではないですが、医者になってから料理はしたことがないですから、最初は大変でしたよ。今では慣れて、毎日自分で作っています」

 食卓には、妻のたつ子さんの遺影を置き、夕飯の時は、石木さん、愛子さん、たつ子さん、3人分のおちょこを用意して、一緒に晩酌した。自分の分をすっかり干した後、最後に、「じゃあ、お母さんの分ももらうかな」と、石木さんがたつ子さんの分も飲み干して笑うのが日課になった。酔うと、石木さんはたつ子さんとの出会いの秘話や新婚の頃の思い出話を楽しそうに娘に語ることもあった。2人でたつ子さんのことを思い出し、時には笑いながら語り合うのは、大事な時間だった。

 入院病棟ができると、多くの患者が高齢者であるため、 看取(みと) りも数多く行うようになった。肺炎や食欲の衰えで、亡くなることが続くと、看取りの経験が少ない愛子さんは落ち込み、石木さんに「私、死に神になったみたいだ」と漏らすようになった。

 「年齢のせいだから仕方ないと片づけられていましたが、知識や経験がもっとあれば、助けることができる人もいるかもしれないと悩みました。地域での介護サービスも不足していて、お嫁さんが自分の生活を犠牲にして介護に専念し、亡くなると生きがいをなくして、今度はそのお嫁さんの体調が悪くなる。日本の高齢化の課題が凝縮されたような土地で2年間働いて、地域力、介護力の弱さが、お年寄りの健康悪化につながっていると感じ、もっと勉強したいと思いました」

 愛子さんは、東北大で加齢医学を学びたいと石木さんに告げ、3年目にこの土地を去ることになった。石木さんは一人、陸前高田に残って診療を続けた。

 被災前も高齢化率34.5%(2010年)と全国に先駆けて高齢化の進む陸前高田市だったが、震災で、若い世代が仕事のある都市に移住することもあり、少子高齢化の課題はより深刻になった。石木さんは市内の医療、介護、福祉施設に声をかけて、互いの連携を強める「陸前高田市の在宅医療を支える会―チームけせんの和」を設立し、会長に就任。地域の住民に病気予防に関心を持ってもらうよう、「チームけせんの和」のメンバーが俳優となって、病気の予防策を演劇で伝える「劇団ばばば☆」も設立した。町の高齢者を招待した初演は、「減塩」の大切さを訴える舞台で、石木さんも医師役の「俳優」として熱演した。

 「ばばばっていうのは、テレビドラマの『あまちゃん』のじぇじぇじぇと一緒で、この地方で、びっくりしたという意味の方言なんです。減塩だけでなく、転倒予防やお口の健康など演目も増えていて、とても好評なんですよ」

 次の院長が決まり、2014年3月、岩手県の医療職を退職した時、石木さんは、一人で仮設住宅に残って仕事を続けることを心配する子どもたちに問われた。

 「これからどうするの?」

 「チームけせんの和」も作ったばかり。雪の季節は、山奥の地域は医療や介護サービスが届かない。高齢化率が35%に迫る陸前高田市で、これから医療や介護の連携をどうしていくのか、介護予防の運動をどう広げていくのか、課題は山積していた。盛岡市に自宅はあり、老健施設の所長などの誘いもあり、心は揺れた。迷った末、陸前高田市に残ることを決めた。

 「どこに行ってもやりがいは見つかるの。全国で少子高齢化の課題を抱えているところなんてどこでもあるのだから、自分のやってきたことを生かせる場所はどこにでもある。でも、ここで被災したというのが大きいのだろうね。自分も被災者の一人だし、妻を亡くしているし、ここでは知った人がやたらと多い。町を歩いているとあいさつされるのは普通だし、運転していても車の窓越しにあいさつされる。そんな人たちが困っている話を聞くと、立ち去りがたい気持ちになる。根付いたというのは何だけど、高田の人たちが安心して暮らせるようにしたいっていう思いは震災後にますます強くなりましたね」

 (続く)

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岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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