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岩手県陸前高田市で医療復興の活動を続ける石木幹人さん

編集長インタビュー

石木幹人さん(2)「日本一高齢者に優しい病院を」 築きかけていた地域医療の未来

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石木幹人さん(2)「日本一高齢者に優しい病院を」 築きかけていた地域医療の未来

「最初は医師になるつもりはなかった」と語る石木さん

 医師としての使命感に駆り立てられ、被災地の医療復興のために力を尽くす石木幹人さん(68)だが、実は、最初から医師を志していたわけではない。青森で開業医をしていた父の生き方に若い頃は抵抗を感じていたこともあり、最初に入学したのは早稲田大学理工学部。医療関連の電子工学研究室に所属していた。

 

 「父親を見ていると、仕事ではほぼ100%患者のために動いていて、最先端の情報を勉強しているようには見えなかった。時折、自宅で開いていた開業医仲間の懇親会を見ていても、語る内容は遊びや趣味の話ばかりで、学生の自分にとっては先が見えてしまう感じがしたんです」

 

 しかし、後を継ぐことを期待される開業医の長男として、「医者にならなくていいのか?」と自問自答する思いは常に胸の中にあった。大学の時の研究テーマは、心電図の自動解析。その後の修士課程では、腸管の音から腸閉塞の部位を診断する機械が作れないかと計画している医師の研究者の協力依頼が研究室にあり、医師と濃密にやり取りをする機会があった。

 

 「こういう世界があるのだなと気付いたら、急に、医師に関心が湧いてきたのです。人間や患者の生活を診るというよりは、病気や体の部位を最先端の科学技術で診るという、今とは真逆の医師像に最初は憧れたのですね」

 

 修士課程を中退し、24歳で東北大学医学部に入り直した。内科か外科かどちらかに進もうと決め、同じ年に入学した弟が先に「内科」と決めたのを聞いて、「じゃあ俺は外科にするか」と、深く考えずに専門を決めた。呼吸器外科の医局に入り、肺がんの手術を数多く執刀した。当時は大半の患者は治すことができず、手術した病院で 看取(みと) る時代だった。

 

 「モルヒネも大量には使えず、緩和医療という発想もほとんどない時代で、患者にがんの告知することも珍しかった。苦痛を取れずに、患者をだましながら看取り、こんな医療はおかしいという疑問が常に心の中にありました」

 

 その頃、世界保健機関(WHO)のがん 疼痛(とうつう) 緩和指針の日本語訳が出て、これは使えそうだと飛びついたが、使いこなせるまでには時間がかかった。それと前後して、終末期ケアを訴える精神科医E・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間 死とその過程について』(単行本は読売新聞社、現在は中公文庫)が日本でも出版され、ホスピスを紹介する様々な書籍も出始めた。

 

 死にゆく患者にどういう医療を提供すればいいのか悩んでいた石木さん。終末期ケアの書籍を読みあさり、特に衝撃を受けたのは、終末期を迎えた患者に「どのように過ごしたいですか?」と医師が尋ね、仕事ができるオフィスが欲しいという希望を元に、病室にすぐに電話やデスクがそろえられたというエピソードだった。

 

 「日本の医療は、医療サイドの都合や利便性が追求されていましたが、受ける側の利便性はほとんど考えられていませんでした。ところが終末期ケアの現場から語られていたのは、患者の人生に沿った医療サービスです。これは今までの医療と全く発想が違うと驚きました。その頃から、外科の医者であっても、患者さんの生活や家族背景がわからないと良い診療なんてできないと考えるようになり、入院してくると、とにかく患者や家族の話を聞いて、看護師よりも家族関係について詳しい医者になっていましたね」

 

 730床を有する県内のセンター病院、岩手県立中央病院の呼吸器外科長を経て、2004年4月に、地域密着型の地域総合病院「岩手県立高田病院」(当時の稼働病床数70床)の院長を任命された。岩手県は、全国で北海道に次いで面積が広大な土地に、県民が分散して住む環境で、慢性的な医師不足と医療提供体制の維持に悩まされてきた県でもある。

 公立病院が農山村や沿岸の過疎地域の医療で果たす比重が高く、どこも赤字続きの収支にあえいでいた。石木さんが院長に就任する直前、高田病院は毎年数億円の赤字を計上し、県が進める県立病院の改革プランでは、病棟の大幅削減など規模縮小の対象施設の一つとなっていた。

 

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高田病院の中を歩く石木さん

 だが、岐路に立った同院の再建という大きな課題を抱えながらも、「患者の生活を考えて医療サービスを提供する」という石木さんの考えはぶれなかった。「日本一高齢者に優しい病院」を掲げ、病院改革に取り組み始めた。

 

 高田病院の近くには、479床を持つ広域基幹病院である県立大船渡病院が控えており、交通手段や体力のある人たちは最初からそちらに通っていた。高田病院に通う患者の多くは、70~80歳の高齢者。入院後に、足腰が弱って寝たきりになるという事態も頻繁に起きていた。

 

 「例えば、おばあさんが一人暮らしで、足や腰を痛めて歩くのが大変なまま自宅に帰したとしたら、自分でご飯を作れないのだから、ご飯が食べられなくなる。家族背景や家庭環境が考慮されていない医療が行われていたのです。肺炎で入院して、治して、退院してもいいよとこちらが言っても、家族が困るわけです。入院するまでは歩けていたのに、退院する時は一人で歩けなくなるからです。だからまず、入院する前の状態で帰すことを目指して、リハビリを充実させることから手を打ち始めました」

 

 リハビリ担当は、もともと理学療法士が1人いたのを2人にした。言葉の障害や食べる機能の障害を訓練して改善する言語聴覚士も一人増やして3人体制になったところで、震災が起きた。2011年4月からは、作業療法士と理学療法士をもう1人増やし、5人体制に強化する矢先だった。

 

 訪問診療も、石木さんが赴任してから強化した医療の一つだ。

 

 「大船渡病院に脳卒中で入院して、介護が必要な状態で高田病院に転院してくる時に、『在宅で診るのは無理だから、施設を探して下さい』と指示されてくる例がとても多かったのです。しかし、家族の話をよくよく聞くと、できるならば家で看たいという人が多かった。それには訪問診療を充実させることが大前提となります。医師の数も限界があるし、高田病院だけでは訪問医療は回せないとなった時に、地域の開業医の先生にも受け持ってもらうことが必要だったのです」

 

 その実現のために必要だったのは、患者が自宅で急変した時にいつでも入院を受け入れる病院のバックアップ体制だった。石木さんは地域の開業医と会議を重ね、在宅の患者の診療情報を病院と共有する「ホットツバキシステム」を構築。ホットは「温かい心」を指し、ツバキは陸前高田市の市花だ。夜間や土日に急に体調を崩した時は、事前登録して患者情報のある高田病院に連れてくれば、即入院させるという体制を作り、地域全体で訪問診療を手厚くする登録システムを2011年4月から稼働させるばかりとなっていた。

 

 高田病院に赴任するまで、呼吸器外科の専門医として活躍していた石木さんが、認知症の患者を診るようになったのも、目の前に認知症で困っている患者や家族が続々現れたからだ。もともと2人しかいなかった内科医の1人が赴任直後に辞めることになり、内科の外来も受け持つようになった。すると赴任して半年ぐらいの間にも、どんどん症状が進んでいく認知症患者を何人も診ることになった。患者の付き添いで来ていた家族も、患者を看取った後に認知症になるということを何人も経験した。

 

 「患者が亡くなった後に、付き添っていた家族も私の顔がわからなくなってしまう。俺は外科だから認知症なんてわからない、と言っている場合ではないと危機感を持つようになりました。そのうち、院長として、地域で市民向けに認知症をテーマに講演してくれと頼まれるようになり、勉強して病態もわかるようになると、これはほっとけないなという思いを抱いたのです。赴任翌年、地域の認知症治療体制の中核的な役割を担う認知症サポート医の講習会があると聞いて、誰も手を挙げなかったので、外科の私が行かせてもらいました」

 

 その後も認知症の専門医の講演会などにまめに足を運び、診療経験を積むうちに、認知症の患者に対して自信を持って接することができるようになった。外来患者の中でも、じわじわ認知症患者の割合が増えていると感じ、認知症に特化した外来を開くことを決めた。この専門外来も、2011年4月に開設するはずだった。

 

 こうして、リハビリの充実、訪問医療の地域体制、認知症専門外来の開設と、04年の赴任以来、こつこつと準備を積み重ねてきた計画が、いよいよ始動しようとしていた時、東日本大震災が起きた。収支も黒字転換し、稼働病床数も増やそうという話さえ出て、明るい希望が見えていた時だった。

 

 「種をまいて、水をあげて手入れして、全部これから花が開きそうとなっていた時に、全部津波で流されたの。あと一歩という時にね」

 

 震災で妻も、病院も、家財道具一式も流された。もう一つ流されたのは、理想に向けて築きかけていた地域医療の未来だった。

 (続く)

【略歴】石木幹人(いしき・みきひと)
 岩手県立高田病院前院長、県医療局名誉院長、陸前高田市の在宅療養を支える会チームけせんの和会長、陸前高田市地域包括ケアコーディネーター
 1947年、青森市生まれ。71年、早稲田大学理工学部卒。79年、東北大学医学部卒。岩手県立中央病院呼吸器外科長兼臨床研修科長を経て、2004年、岩手県立高田病院院長。11年3月、東日本大震災で同院が全診療機能を失い、妻を津波で亡くしながら、診療を続ける。14年3月に岩手県医療局を退職後も陸前高田市に残り、地域医療の復興に携わっている。
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岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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