認知症の当事者団体共同代表、藤田和子さん
編集長インタビュー
藤田和子さん(3)日本認知症ワーキンググループ発足 パートナーと共に
認知症の当事者団体共同代表、藤田和子さん
2009年、認知症の当事者として個人的に意見発信の活動を始めた当初、藤田さんは仮名を使っていた。翌年、「若年性認知症問題にとりくむ会・クローバー」を設立する前までだ。
「隠したり、恥ずかしがったりすることではないですから、名前も写真も公開していいと最初から思っていました。でも、その頃、一緒に活動していた人に、『当事者が名前や顔を出してしゃべると、何が起きるかわからない。家族にも影響があるかもしれない』と言われて怖くなったのです。私はいいとしても、家族が中傷されるのは避けたかったし、迷惑をかけたくなかった。また、夫は、活動そのものは応援してくれましたが、写真などを公開することで私が嫌な思いをするのではないかと心配していました」
職場や近所づきあいなど身近な生活圏では、特に認知症を隠すことはしていなかった。
「近所で、私がいつものようにあいさつをしたら、返事もなく冷たい視線を投げかけてくる人もいました。それが何回か重なると怖くなって、自宅のレースのカーテンを、窓ガラス全面に貼るシートに替えて、外からの視線を遮ったりもしました。閉じこもるまではしませんでしたが、認知症の私に対する世間の目が怖かったのです」
認知症になったと打ち明けたとたん、距離を置く人もいた。しかし、「認知症になっても私は私」と自分に言い聞かせて、負けずに活動を続けていると、「あなたのやっていることは間違っていない」と支えてくれる人もいた。結局、家族への中傷や、事前に心配したことは起きなかった。いつしか、実名で活動することが平気になっていった。
講演やシンポジウムなど、当事者発信の活動を続けていく中で、つながりが広がっていった。全国各地で「認知症になっても生きやすい社会を」と声を上げる当事者が少しずつ増え、藤田さんもほかの当事者とメールでのやり取りだけでなく、実際に会って話し合う機会ができた。2012年9月には、「第1回『認知症当事者研究』勉強会」が開催され、翌月にはインターネット上で同様の意見交換をする「3つの会@web」も開設。認知症について語り合える場が生まれた。
「認知症とどう生きるか」を話し合う「認知症当事者研究」勉強会には、当事者はもちろん、医療・ケア関係者、関心のある市民、メディアや行政担当者など、様々な立場の人が参加する。「認知症をどう伝えるか」「認知症と生きていくために必要な医療とは」などをテーマに回を重ね、14年7月には、東京で「『認知症の人基本法』に望むもの」というテーマの第5回が開かれた。この日、藤田さんは初めて参加し、話をした。
グループディスカッションを経て、会の最後に藤田さんは、120人の参加者に、思いを投げかけた。「ここで話し合いをしただけで終わっていたら、結局、同じところにとどまり続けると思います。私たちの声、皆さんの声を聞いたという責任が、参加者の皆さんにはあります。これからどうしていかなければならないか、小さいことからでも一人一人が行動していってほしい。皆さんから発信し、点が線になって、線が面になるような動きを作り出してほしい」
この回には、当事者15人が参加していた。「また集まって話し合おう」と声が上がり、同年9月には認知症の人4人が世話人会に参加した。折しも、スコットランドで認知症の人の権利を守るための活動をしている当事者団体「スコットランド認知症ワーキンググループ」の取り組みがテレビ番組で紹介されたばかりで、「認知症の本人である私たちが何をするか。何ができるか」「『認知症の本人によるワーキンググループ』を日本にも設立してみたらどうか」などの意見が飛び交った。こうして、設立準備会の開催が決定した。
同年10月11日に開かれた設立準備会では、「一人では言いづらいことも、まとまることで提言ができる」と賛同の声が並び、認知症の人が自身で政策提言などを行う国内初のグループ「日本認知症ワーキンググループ」が発足した。藤田さんは、認知症の当事者3人による共同代表の一人になった。「認知症になってから希望と尊厳をもって暮らし続けることができ、よりよく生きていける社会を創り出していくこと」という目的を掲げ、同月23日には厚生労働大臣との面会で、(1)認知症施策の策定や評価に本人が参画する機会の確保(2)認知症初期に対する理解や支援を実現するために体験談や意見を集約(3)認知症の本人が希望をもって生きている姿や声を社会に伝える新しいキャンペーン――の三つを盛りこんだ「認知症施策の推進に向けた認知症本人からの提案」を伝えた。
「日本認知症ワーキンググループ」で政策提言などをする「メンバー」は、認知症の人限定となる。一方、活動の目的に賛同し、その実現に向けてメンバーと活動を共にする人は「パートナー」と呼んでいる。医師やケア関係者、行政担当者など職種や立場は様々で、パートナーの一人の看護師の水谷佳子さんは、「支援者でもサポーターでもなく、支える支えられるという一方的な関係、上下関係はない。同じ目的に向かって、同じ立ち位置で、一緒に進む仲間です。車の両輪のようなもので、どちらが欠けても動かない。だから、パートナーと呼ぶことをみんなで決めたのです」と話す。
さらに、「日常生活を送る中で、その時々に必要となる『パートナー』もあるんです」と藤田さんは語る。
藤田さんは講演や取材対応をする時、初対面の人に思いや考えを伝えるのに大変な思いをするため、パートナーと一緒に伝えたいことをまとめる作業をし、連絡やイベントの段取りを行う。今回のヨミドクターの取材も、藤田さんの日常生活でのパートナーでもある水谷さんが、日程調整や原稿の確認、修正作業を全面的に一緒に進めてくれた。「認知症の人がよりよく生きられる社会」という共通の目標を実現するために活動する「同志」のような存在だ。
「私の言いたいこと、伝えたいことをより明確にするために、私が話して、それを文章化して、さらに推敲(すいこう)を重ねることを一緒にしています。それがないと、私の言いたいことが違うニュアンスのまま世の中に発信されていってしまうかもしれない。普段から色々話し合っているので、会話を重ねる中で私の言葉が出てきやすいのです。何を伝えたいのか根気よく一緒に整理していきました」と藤田さん。
パートナーの水谷さんも「同じ登山の趣味を持つ認知症の友人と一緒に山登りをすることもあるし、和子さんには看護師の先輩として私の悩み相談にも乗ってもらうことがある。つまり、和子さんは私のパートナーでもあるということなんです」と返す。
「よく、『何を支援したらいいですか?』と言われます。でも、認知症の人には、これをすればいい、これがあればいいという特定のことはないのです。例えば、とても調子が悪くて一人で買い物に行くのは負担が大きすぎる時もあれば、一人で買い物を済ませられる時もあります。負担は大きくても、今日買っておきたいという時もあれば、外出そのものをやめたい時もあるのです。つまり、その時々で調子や優先したいことは変わるので、『買い物に一緒に行く』という、固定化した『特定の支援』がほしいわけではないのです。それよりも、私がその時どうしたいのかを、どんどん問いかけてくれる方がうれしいです」
生活は衣食住などの「最低限生きていくのに必要なこと」だけで構成されているわけではない。藤田さんの場合、美術館に行ったり、友人のプレゼントを買いに行ったりすることも生活の一部だ。それを続けていくことが、「認知症になってからも、したいことを実現する。したいことを楽しむ」ということで、そのためにはその場面、場面での「パートナー」が必要になる。
「一人のパートナーがオールマイティーに動いてくれるのではなくて、そういう生活のひとこまひとこまを一緒にやっていくパートナーが複数ほしいということなのです。そして、パートナーとは一方通行ではなくて、相互通行のやり取りがあります。だからどちらか一方の思いや考えを無条件に受け入れるということではなくて、時にはぶつかったり、折り合わなかったりすることもあります。また、パートナーが困っていたら私が助けることもできるかもしれない。相手のことをお互いに思い合っているから、時に衝突しても何回も修復できる。そして一緒に楽しめる。パートナーってそんなイメージかな」
様々なパートナーと一緒に、これまで通り日常生活を楽しみ、ワーキンググループの活動で発信を続ける藤田さんはこう話す。
「『私たちのことを私たち抜きに決めないで』というのは、元々、障害のある人たちの声でした。オーストラリアやスコットランドの認知症の人たちが活動する時の合言葉でもあります。そして、私もその精神で動いてきました。当事者だからこそ、気付くこともあります。一緒に、よりよい社会を作っていきたい。制度や仕組みを作る時でも、当事者である私たちが参画して、意見交換して作っていくのが一番早いと思うのです。その過程で、今ある認知症の人への偏見はなくなっていくでしょう。そして最終的には、誰もが『認知症になってから希望と尊厳をもって暮らし続けることができ、よりよく生きていける社会』にしていきたいのです」
(続く)
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