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寒竹葉月~男に生まれ女として生きる~

yomiDr.記事アーカイブ

(2)旅立ち~ 生きる目標とかなえる夢

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独り立ちした15歳の春

 15歳の春、3年前と同じ桜の花びらが舞う中学校。女として生きようと決め通った中学校を卒業する日。3年間良い思い出はほとんどなかった。周囲からの偏見やイジメを受け、ほとんど家に帰ってこなかった父が作った莫大ばくだいな借金を背負わされた母が、働いて借金返済をするため、取り立て屋が家に来て私たちに迷惑がかからないために家を出てから、姉2人と生活保護を受け、子供だけで生きてきた。

 同級生たちが笑い、涙し、別れを惜しむ中、私は無表情のまま桜が舞う景色をただ見つめていた。母が家を出てから、私は中学を卒業したらこの町を出る決意をしていた。誰も自分を知らない都会に出て自分でお金を稼ぎ、自分の力で生きていく。そう決めていた。最低限の荷物も持ち、私は15年暮らした町を出た。大阪市内に家賃6万円のワンルームマンションを借りた。もちろん友達などいない。1人でのスタートだ。午前4時から夜中1時まで弁当屋、コンビニ、居酒屋を掛け持ちしながら働き、睡眠時間は3時間もなかった。それでも充実感が私を満たしてくれた。あの町で周囲の偏見の目に追われ暮らしていた頃より。

 私は仕事の面接の時、決まって自分が性同一性障害であることを「私はニューハーフです」と説明していた。幸い、働いていた3軒とも「仕事がちゃんとできるならいいよ」と言ってくれた。人の2倍仕事をした。「性同一性障害」や「女」「男」としてじゃなくて社会人として評価されたかったから。気付けば、バイトを通して友人もたくさんできた。「ニューハーフです」と言うと初めは皆戸惑う。でも「性」ではなく自分を知ってもらうために、自分から歩み寄った。そうするうちに仲間は増えていった。一生付き合える親友にも出会った。

 社会と性同一性障害はまだまだ共存できていない問題がたくさんある。偏見が完全になくなったとは言えないし、決して生きやすい社会ではないけれど、社会人として人として生きていくのに「性同一性障害」を理由や言い訳にしたくなかった。

「目標」と「夢」は別のもの

 大阪に1人で暮らし始めて2年、ある知人の紹介で「うちの店で働かない?」と勧められて働いたお店は夜のバー。性同一性障害のMTF(Male to Femal 体は男性だが、性自認は女性)が集まるお店。そしてそのMTFとの出会いを求める男性がくる場所。そのお店で働いて3年。MTFの人たち皆がいつも言っていた「いつか手術をして女になる」と。それが「目標」。戸籍変更はまだ「夢」のままだった。

 「目標」と「夢」はいつも別のものだと私は思う。

 「目標」は長い人生のいくつもの通過点であり、「夢」は常に心にあり、自分を高めてくれるものだ。

 それが、2003年7月、「性同一性障害の性別の取り扱いの特例に関する法律」として成立し、特定の要件を満たす者は、家庭裁判所の審判により戸籍上の性別記載を変更できる」ようになった。「夢」が、もう1つの「目標」に変わった瞬間だった。「男」として生まれ「女」の心を持ち、また「女」として生まれ「男」の心を持ち、一致しない身体と心を持ち生きる人たち。時々、私たちの存在は社会や世間から見て見ぬ振りをされているのだと思っていた。

 だけど、闘った人たちがいた。ありのまま生きる権利を求めて闘った人たちが。決して簡単な闘いではなかったと思う。でも勝った。私より何年も長く生きている人たちが話してくれた私が知らない時代、社会が性的マイノリティーに向けたのは偏見と差別だ。自分たちだけのカテゴリーで作った「普通」をみて性的マイノリティーを「異常」とした。それでも立ち上がり自分はここにいるのだと叫んだ人たちがいる。私は「普通」ほど、怖い言葉はないと思う。たったこの2文字が偏見や差別を生みだしていくから。

 理解しようと歩み寄ってきてくれた人ももちろんいる。だが「普通」という言葉を使うならば、私は「自分らしく」という言葉を使いたい。性同一性障害の「障害」は偏見や差別がつくる「障害」という壁じゃない。自分の生きる道にある、自分らしくあるために越えていく「障害」の壁だ。誰かの言葉に、誰かの態度に、恐れることなんてない。自分の中にある、その「障害」の壁を乗り越え、自分を認められたなら誰にもない道が見えるはずだからだ。

「目標」を達成したその後は?

 戸籍変更(性別変更)が施行された日から「夢」は「目標」へと変わった。精神科医の診断を受け、女性ホルモンを投与し、性別適合手術を受ければ戸籍変更はできる。23歳の頃、そのすべてが手の届くところまできていた。

 だが、私はすぐ手術には行かなかった。何年か前に比べれば情報は増えたが、それだけでは足りなかった。もっと知識や経験がいると感じていた。一生に一度の大きな手術。命をかけて上がる手術台だ。性別適合手術の技術が最高レベルになるまで待ちたかった。やるなら完璧な女性の身体にしてほしかった。

 それに、もし「目標」を達成したら、その後は? そんな疑問が自分につきまとっていた。手術をして戸籍変更したら、その後、自分のやりたいことは? それを決めておきたかった。よく若い当事者から相談を受けると、みんな「早く手術して戸籍変更したい」と話す。じゃあその後は?と聞くと「・・・」。沈黙するケースが多い。2016年になった今、もう当事者の中では手術、戸籍変更はすぐ手が届く位置にある。だから目先のことに走りすぎて、その後がわからなくなるケースが増えている。もちろん私もその気持ちはわかる。身体と心が一致、「性」が一致して初めてゼロのスタート地点に立てる。でもゼロの先がなければ無だ。23歳の頃、焦って手術しなかった理由の一つ。この先自分はどうなりたいのか、どう生きて行きたいのか。それを考えるための時間は必要だ。

「伝えること」が私の「夢」

 私は手術後、自分がどうなりたいか考えた時「伝えること」が「夢」になっていた。自分と同じ「性同一性障害」を抱えて生きている人たち、これから向き合う人たち、そして、「性同一性障害」の当事者を家族や友人に持つ人たちに、自分の経験を伝えることで、少しでも役に立てればいいと思った。実際、手術直前から沖縄に移住し、テレビのドキュメンタリー番組やラジオに出演し、GID(性同一性障害)学会での講演や、「性同一性障害」を学ぶ高校の授業の特別講師などをしてきた。

 中でも自分の「夢」を大きくしてくれたのは、コラムニストとしての仕事だった。ある雑誌の1ページに記事を載せたことがきっかけで、地元新聞での連載が始まり、文章で人へと「伝える」という夢がかなった。この「伝える」という夢は、今後もずっと持ちつづけたいと思っている。

 手術、戸籍変更が「目標」ならば、その先は「夢」に向かえばいい。その「夢」を持つための考える時間をしっかり持ってほしい。性同一性障害と自身を認め、カミングアウトし、手術に挑み、戸籍変更を終えた自分は、きっと前の自分よりもっと強くなっているはずだ。そこから目指す夢ならば、どんな困難でも乗り越えられるはずだと思うのだ。

(続く)

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寒竹葉月(かんちく はづき)

1982年、兵庫県生まれ。MTF(男性として生まれ女性の心をもつ)の性同一性障害、当事者。28歳で性別適合手術を受け戸籍変更後、女性の戸籍を取得する。同時に沖縄に移住し、コラムニストとして雑誌、新聞に連載をもち、ラジオやテレビに出演。GID(性同一性障害)学会に演者として登壇。一般社団法人gid.jp日本性同一性障害と共に生きる人々の会沖縄支部副支部長を務める。現在は大阪在住。

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1件 のコメント

人生は一度

埼玉のシニア

何だねえ、自分の子供のころを思い出したね。 兄弟 姉妹が多く末っ子の自分はいつも のけ者で、かといってお袋には可愛がられたけれど、なんだか女に興...

何だねえ、自分の子供のころを思い出したね。
兄弟 姉妹が多く末っ子の自分はいつも のけ者で、かといってお袋には可愛がられたけれど、なんだか女に興味が薄かったのは何でかなと今考える。

そのまま大きく成って社会に出たけれど、周りが気になり仕方がなかった。好きな男もいたけれど、その人は組合運動で頭が左翼的で、ついて行けなかったから、今考えると幸せだったかな。それでも、自分としてはなよなよした行動をとっていたかな。

今78になって、昨年後半から親しい人が突如現れ、今幸せ気分さ。男の茶飲み友達だけれど。

私の場合は同性に夢中になるようで、寒竹さんと違うのだけれど、通常常識で考えられる間柄ではない様だね。
しかし寒竹さんの気持ちは理解できるかな。
人間の一生など、環境によって大きく変わるものだ。自分に子供でもおったり、家内が若年性アルツにならなければ、多分このまま男と女の関係が続いただろうと思う。

だから寒竹さん、今と将来だけを考えて、自分の思う通りの道を進めばいいよ。応援するよ。

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