白血病と闘う~政治部デスクの移植体験記
闘病記
「白血病と闘う」番外編インタビュー
全国骨髄バンク推進連絡協議会顧問 大谷貴子さん(上)
「白血病と闘う」を読んでいただき、ありがとうございました。今回から番外編としてインタビューを掲載します。1人目は、日本初となる骨髄バンク設立運動に尽力された、全国骨髄バンク推進連絡協議会顧問の大谷貴子さん(54)です。骨髄バンクもなく、 骨髄移植 もまだほとんど浸透していない30年前、慢性骨髄性白血病と診断され、一時は「このままでは余命1か月」と宣告された大谷さん。骨髄移植の 黎明 期の話、日本初となる骨髄バンク設立運動に奔走された話などを伺いました。
闘病ブログ、壮絶だけど、読ませる力…自身も30年前に白血病
大谷貴子さん (以下、大)闘病記のブログ読みました。お元気になられたようで本当によかった。
池辺 (以下、池) ありがとうございます。知り合いの読売の記者から私のブログのことを聞いて、読んでいただいたそうですね。
大 はい。壮絶だけど、さすが記者さんが書いただけあって、読み物として読ませる力がとてもあると感じました。一気に全部読みました。私も本を書きましたが、情報としてもう古いので、新しい情報を新しい方が緻密な文章で記録し、伝えることは、患者さんにとって、とてもいいことだと思います。これからさい帯血移植に臨む友人に、さっそくブログを紹介しました。「絶対に安心するから読んで。壮絶だけど、きちんと着地することがわかるから」って。
池 恐縮です。大谷さんは、骨髄バンクもさい帯血バンクもない30年前に白血病を宣告されたのですね。
大 女優の夏目雅子さんが白血病で亡くなった翌年(1986年)の12月です。私が患った慢性骨髄性白血病は当時、急性骨髄性白血病と違って化学療法は効果がなく、「白血病の中でも最もやっかいな病気」として移植しかないと言われました(注・近年は、イマチニブ=分子標的薬というがんの成長の鍵となる分子のみを標的とする薬が使われ、慢性骨髄性白血病はこの薬を飲み続ければ、症状をほぼコントロールできるようになっています)。延命だけで、回復は無理だと。当時、医師が「骨髄移植は夢のような治療の段階です、日本では」と言ったのをはっきり覚えています。別の医師は「野蛮な治療」だと。確かに、それは今でも当たっていますけどね(笑)。家族も「なすすべはない」と一時、覚悟を決めていたようです。
池 30年前ではなく、もっとずっと前の話のような印象を受けますね。隔世の感があります。
大 内科医だった父は、私に病名を伝えるべきではないという考えでしたが、米国在住で、米国で看護師の資格を取った姉は、「病気になったことはかわいそうだけど、伝えないことはもっとかわいそう」という考え方で、病名を教えてくれました。「明日のことはわからない。いい病院探すから」と励ましながら。私はショックが大きすぎて覚えていないのですが、姉によると、「あと、どのくらいで死ぬの」と聞いたそうです。
姉と私は骨髄移植をやってくれる病院と医師を探し回りました。ネットのない時代ですので、直接訪ねるやり方で。医師から露骨に嫌な顔をされることも多かったのですが、京都大学医学部付属病院の医師が「うちでは骨髄移植はやっていないが、国内のほかの病院に行くなり、米国に渡るなり、やってみましょう」と一緒に考えてくれる姿勢を示してくれて、本当にありがたいと思いました。
姉とHLA合わず、強烈なショック…骨髄バンク設立に期待、署名活動へ
池 当時はさぞ、不安だったでしょう。
大 実はまだこの頃は、姉がドナーになって、一緒に米国に渡って移植すればいいと楽観的に考えていました。「姉妹では(移植の前提となる、HLA型といわれる白血球の型が一致する確率は)4分の1」と言われましたが、「4分の1もある。お互い気が強いし、よく似ているから、きっと合うよ」と笑って話していたんです。
でも、87年夏、姉とHLAが合っていないと宣告されました。これは強烈なショックでした。この頃は私なりに勉強して、移植ができないことは「あなた、死にますよ」と言われたに等しいことはわかっていましたから。
ただ、この時も拾う神がいて、米国にいる姉の夫から電話で「米国に骨髄バンクができたと、新聞で読んだ」と連絡があったのです。他人からでもHLAが適合すれば移植ができると知りました。
池 期待は大きかったですか?
大 いえ、私は最初、「ボランティア精神の旺盛な米国人だからできるのよ」と冷めていました。「人種が違うから、米国のバンクで移植はできない」とも教えられていましたので。でも、ここから、日本にも骨髄バンクがあればいいという発想につながったのです。
厚生省(当時)や日本赤十字社などにも出かけ、「どうしたら骨髄バンクできますか」と詰め寄りました。厚生省の方の回答は「100万人署名があれば」。はじめは「はよ帰ってほしいから、思わず出たウソや」と思いました。
でも、知り合いの市議に尋ねたら、「それは有効な活動だ」と教えてくれました。あとは、読売新聞など新聞、テレビのマスコミが100万人署名活動を強力に後押ししてくれて、いろいろな人が情報や連絡をくれて、「日本人は、本当はやさしいんだ」と実感することができました。
姉「あんたが死んだ後、誰かが助かる」と励ます…マスコミ、世論が後押し
池 署名活動は、自分のためでもあり、公のためでもあったわけですね。
大 いえいえ、活動を始めた頃は、公のためとはあまり思っていませんでしたよ。やっぱり自分のため(笑)。自分が死にたくないから。だから、全然ほめられる活動ではないんですよ。姉からは「貴子には間に合わないかもしれないけど、この運動をやっていたら、あんたが死んだ後、ほかの誰かが助かるからやりなさい。あんたが生きた価値があるやん」と言われましたけどね。「誰もが移植を受けられる世の中にしたい」と本気で考え、そのために活動するようになったのは、移植の後でしたね。
池 「日本に骨髄バンクを作ろう」という署名活動の盛り上がりは、大谷さんのドナー探しにもいい影響を与えたそうですね。
大 はい。いろいろ有益な情報が入ってくるようになり、HLAの専門家が「あなたの両親、祖父母の出身地はいずれも関西の近いエリアに集中しているので、その辺りで探せばいい。そして、念のため、両親の検査もしてみたら」とアドバイスをくれたのです。(続く)
< 骨髄移植 >
血液のがんである白血病などの治療に主に利用され、抗がん剤など薬による化学療法では治療できない患者が主な対象。患者は血液成分を作り出す骨髄の造血幹細胞ががん化し、白血病細胞が異常増殖していることが多い。このため、大量の抗がん剤投与や放射線治療で白血病細胞をほぼ全滅させ、骨髄を空にした後、健康な骨髄の提供者(ドナー)から採取した骨髄液を移植し、正常な血液を造ることができるようにする治療法。白血球の型(HLA)が患者と適合したドナーがいて、初めて成り立つ。
【略歴】大谷貴子(おおたに・たかこ) 日本骨髄バンク評議員、全国骨髄バンク推進連絡協議会顧問 |
1961年6月大阪市生まれ。現在は埼玉県在住。86年12月、千葉大学大学院在学中に慢性骨髄性白血病と診断される。88年1月、母親から骨髄移植を受ける。同年8月に名古屋骨髄献血希望者を募る会を発足させ、翌89年10月に東海骨髄バンク、91年12月に骨髄移植推進財団(日本骨髄バンク)を設立。著書に『霧の中の生命(いのち)』(リヨン社)、『生きてるってシアワセ!』(スターツ出版)など。 |
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