原隆也記者のてんかん記
闘病記
言えなかった「私もてんかん患者」
多数のいたいけな子どもたちが犠牲となった事故 後、複雑な思いを抱えながら、震災応援も終わり、元の職場に戻りました。
この部署での主な仕事は、日々の記事を基に小中学生向けの問題集を作成する事業と、小中高校に赴き、新聞がどのようにできるかを説明する出前授業でした。
特にやりがいのあったのは出前授業です。コンセプトは「新聞記者になろう」。子どもたちが、実際に記者が使っている同じメモ帳を手に、一日記者を体験してもらうというものです。
流れとしては、最初に記者がお手本として先生などを相手にインタビューを行い、その時のメモの取り方を披露します。例えば、画数の多い漢字はひらがなで書いたり、長い単語は、自分が分かる頭文字(読売新聞なら「Y」)で略したりします。
最大の見せ場は、インタビューを基に記事を仕上げる場面です。記者のパソコンを大型テレビやプロジェクターにつないで、記事を書き上げていく様子を映し出します。子どもたちは目を輝かせながら、「速い」「すごい」といった驚きの声をあげてくれました。
そして、実際に子どもが地域から招いたゲストを相手にインタビューにチャレンジし、要点をまとめます。ゲストは、地元の警察官や消防隊員、銀行員から料理人まで様々な職業の人が集まります。子どもたちはゲストに「なんでこの仕事を選んだの?」「仕事での苦労は?」「一番のやりがいは?」と次々と質問していきます。最後のまとめでは、「これでいいのかなあ」「難しい」と悩みながら、仲間と協力して仕上げます。
子どもたちの生き生きとした表情に、心が温まりました。
この出前授業で、千葉県のある高校を訪れたときのことです。ゲストの中に、障害者支援に取り組んでいるボランティア団体の方々がいました。その中の一人の方に話しかけられました。最初に、「良い授業ですね」というような評価をいただいたのだと思います。
その後、団体の活動に触れ、「実は私の娘に重度のてんかん発作がありまして…」と身の上を明かし始めました。娘さんは発作が重なり、障害を抱えながらも学校に通っていることも話していただきました。そこで私は「実は自分も…」とのど元まで出かかったのに、言えませんでした。
何がブレーキとなって思いとどまらせたのか。恥ずかしいから? わざわざ言う必要はないから? 理由は今も分かりません。ただ、今のように「私もそうですよ」と言えなかったことを後悔しています。
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