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岩手県陸前高田市で医療復興の活動を続ける石木幹人さん

編集長インタビュー

石木幹人さん(1)妻と病院、津波で流され それでも誓った「命を守る」

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石木幹人さん(1)妻と病院、津波で流され それでも誓った「命を守る」

仮設病院として診療を続ける県立高田病院の前で語る石木さん。妻と約束したジーパンが、今ではトレードマークとなっている

 東日本大震災から5年が () った。かけがえのない人を亡くし、自宅や職場が流されて生活が一変した被災地で、どれだけたくさんの人が悲しみを胸にこれまで生きてきたのだろう。あの日、自身が院長を務めていた岩手県立高田病院が津波にのみ込まれ、妻を失いながらも、地域の医療を守るため診療を続けてきた医師、石木幹人さん(68)。退職後の今も、自宅のある盛岡市には帰らずに仮設住宅に残り、地域医療の復興に挑み続ける。少子高齢化の急速な進行、地域コミュニティーの崩壊――。日本の未来を先取りしていると言われる被災地で奮闘してきた5年間と、これからの地域医療についてお話を伺った。

◆◆◆

 インタビューは、震災後4か月で高台に設立された仮設の高田病院で行った。白衣の下は若々しいジーパン姿だ。

 「診察の時はいつもこれ。被災した年の正月に、うちのやつと約束したの。体重が70キロになったらジーパンを買うよって。結局、見せられなかったけどね」

 「うちのやつ」とは震災で亡くした妻たつ子さん(当時57歳)のことだ。かつて80キロ以上あったという体重は、被災後の奔走で自然に落ち、約束のジーパンを買った。今では、トレードマークのように毎日はいて、市内のあちこちを歩き回る。

 陸前高田市は、今年1月時点の高齢化率が36.2%と全国平均(26.0%)をはるかに上回る。高台造成に時間がかかっているため、高田病院の本格再建は来年度に予定されている。石木さんは今も、仮設病院から西へ約3キロ離れた西和野の仮設住宅で暮らし、2014年の退職後も仮設病院で週2回の認知症外来を持つ。週1回は市の「地域包括コーディネーター」として、市民の相談業務や健康関連の講演などを行っている。

 「地元の人と話していると離れがたい思いになるし、やっぱり、やり残したことがあるという思いがあるからでねえかな。医療と介護の連携も、今、自分が手を引いてしまったら、このまま崩壊してしまうと思うし、冬になると雪で介護や医療の手が届かなくなる山間部をどうするかという問題も手つかずのまま。地域の高齢者を支える仕組みがしっかりできて、先が見えるまではいないといけないんでねえかと思ってね」

◆◆◆

 あの日、入院病棟のある4階で患者の回診をしていた時、これまで経験したことのないような大きな揺れに襲われた。身動きさえできないほどだ。揺れが収まってから、1階に降りて情報収集に当たったが、電話はすぐにつながらなくなり、職員も混乱状態で必要な情報は入ってこない。

 「こんな大きい地震なのだから津波は来るのだろうと思っても、情報がないから動けない。当時、有線放送で津波情報は流れていたらしくて、職員の中には聞いていた人もいるようなんですが、各部署でやることがいっぱいあり過ぎて、院長に情報が降りてこなかった。衛星電話もありましたが、使ったことがないから使おうという発想にもならない。その間にも面会に来ていた家族が『自宅に帰る』と言い張って、みんなで病院にとどまるように説得したりと、無為に時間を過ごしていました」

 やっと津波情報が入った時は、地震発生から30分以上経っていた。防災計画で想定していた最も高い津波は、病院の2階まで。訓練通り3階まで逃げた直後、窓の外に高田松原の松林を越えて、どす黒い津波が病院に押し寄せてくるのが見えた。

 「窓の外に津波を見てから2、3分だったと思います、高田病院がのみ込まれたのは。当時のことはもう記憶が薄れているのだけれども、私や職員は『屋上に逃げろ!』と叫びながら上がったらしいです。寝たきりの患者さんで救えなかった方もおり、最後まで1階で見回っていた事務局長も行方不明になりました」

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震災の時、父と共に働いた経験を話す医師、石木愛子さん(東北大加齢医学研究所で)

 屋上から陸前高田の町を見ると、一面津波に覆われて、風景が一変していた。専業主婦をしていた妻のたつ子さんは、病院より少し山側の宿舎にいるはずだったが、そのあたりの家屋もことごとくなくなっていた。

 「うちのやつはボランティアもしていたし、友達も多かったから、出かけていてくれたら、宿舎から動いていてくれたら助かっているかもしれないという希望をその時は持っていました」と石木さんは言う。妻の生存を祈って、水浸しになった町をどんな思いで見渡したのか。後に、娘の愛子さん(31)には、「屋上から探しても、お母さんの気配がまったく感じられなかった」と振り返ったという。

 屋上に避難した約100人のうち、患者や体力のない人は風がよけられる囲いの中に入り、防寒具を着ていた人は自主的に外に出て、一晩を過ごした。翌朝、ヘリでまず患者を、次に一般住民を運んでもらい、最後に病院スタッフと共にヘリに乗りこんだ時には夕方になっていた。3月11日の高田病院の死者(震災関連死を含まず)は、患者12人、職員(非番も含む)6人に及んだ。

 「ヘリで避難して、空から何もかも流された陸前高田を見渡した時に、改めて、『医療は壊滅だ』と思いました。それと同時に、『でも高田病院のスタッフの大半は生き残った。自分たちで医療再建をしなければならない』という思いが、すごく強くわき上がりました。感傷に浸っている暇はなかったですよね」

 高田病院のスタッフは全員、ヘリで市内の公民館「米崎コミュニティーセンター」に運ばれた。到着したとたん、うわさを聞いて集まった患者の診療が始まった。妻のことが心配だったが、日頃から夫婦で「何か災害があったら、市立第一中学校(一中)で落ち合おう」と約束していた。翌日、各避難所の様子を見回りに行った時に、一中にも足を伸ばすと、近所に住んでいた人にばったりと出会った。「先生の奥さん、直前は自宅にいたよ」と、その人は告げた。

 「それを聞いた瞬間、『ああ、もうだめだな』とあきらめました。もう絶対に無理なんだなと」

 その足でまたコミュニティーセンターに帰り、詰めかけていた患者の診療を始めた。

 医学生時代に結婚した妻は、家事や育児を一手に引き受け、石木さんが勉強や仕事に集中できるように支えてくれた。医師不足の高田病院に赴任し、医師を確保するために各地の大学病院を走り回った時は、50代になっても当直日数が多くて疲れ切っている石木さんの代わりに、長時間の運転をこなしてくれた。医療や社会問題にも関心が高い読書家で、「これを読むといいわよ」と勧めてくれて、診療の幅が広がった。自分の人生になくてはならない相棒だった。

 (今日の夜は大変だな。一人になったら泣いてしまうんでねえかな)

 一瞬、不安がよぎったが、患者の前に座ると、医師としての責任感が感情に溺れそうな心を押しとどめた。そこに突然、現れたのが、盛岡にいるはずの三男だった。周囲に止められたそうだが、「とにかく両親の無事を確かめたい」と緊急車両に紛れて車で陸前高田に入り、数時間、あちこちを歩き回って、父の元にたどり着いたのだ。

 「『先生、息子さん来たよ』って声をかけられたんだけど、診察中だったので『ちょっと待ってろ』って言ったみたい。『あの時、冷たかったなあ、お父さんは』って後で言われました。夜、みんなで雑魚寝しているところに2人で並んで寝て、『お母さんはどうも自宅にいたみたいだから、まず無理だ』と伝えたんですよね。でも、息子が来てくれたおかげで、心が乱れずにすんだな。その夜もちゃんと眠れたし。翌日には盛岡で研修医をしていた娘が来てくれて、初期に家族に支えられたというのは、すごくあったね」

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震災の時を振り返る石木さん

 当時、盛岡市の岩手県立中央病院で初期研修中だった長女の愛子さん(現・東北大学加齢医学研究所老年医学分野所属)は、13日の昼頃、高田病院で研修中で、ヘリでいったん盛岡に運ばれた同期の研修医から、石木さんに託されたというメモを受け取った。そこには患者と職員の被災状況、当面必要な衣服や薬などが書かれ、「お母さんは絶望的です」とも書かれていた。愛子さんは翌日、職場の上司らと6人で支援物資を持って陸前高田に向かった。

 高田病院のスタッフの避難場所となった米崎コミュニティーセンターには、高血圧や糖尿病など持病の薬が津波に流されたという患者、風邪をひいたという患者が続々と来て、スタッフ自身も被災者なのにフル回転で診療をした。院長の石木さんは、地域医療に責任を持つ立場として、14日朝からは主な避難所を回り、被災者の健康状態を探った。

 「避難所に行くと、『ああ! 院長だ』と途方にくれた人たちが集まってくるじゃない。『何とかするから心配しないで』と声をかけると、ほっとした様子でした。一番大きい気仙町の避難所は橋が流されて、ぐるっと遠回りしないと入れなかったんだけど、『明日必ず医者を出すから、安心して』と伝えて、次の日は医者2人と看護師何人かに行ってもらった。そういう場所が何か所もあって、そこも何とかすると約束して回りました」

 院長に赴任して7年。高齢化が全国に先駆けて進んでいたこの地で、「高齢者に一番優しい病院」を掲げ、高齢者が退院後に自宅でスムーズに生活できるような医療体制を準備してきた。すべて流され、地域医療が壊滅的な被害を受けた時、改めて地域における医師の役割を思い知った。

 「ここで高田病院がこけたら、地域の人の命が守れなくなると思いました。震災翌日には日本赤十字の医療支援チームが入って広範囲に活動してくれていたのですが、だからといって、僕らが日赤に全部任せて休んでいるわけにはいかない。ヘリの上から何もかも流された高田のまちを見た時、高田病院が何とかして医療を復活させないと、この地域の未来はないとまで思っていたんです。市には救護所を設置する場所を探してもらい、そこに医者を張りつけていくという作業を繰り返しました」

 14日の夕方に駆けつけた愛子さんは、避難所回りを終えてコミュニティーセンターに帰ってきた父の姿を見ると、思わず駆け寄って抱き合った。「生きてて良かった」と父に告げた。後日、石木さんは「その言葉を聞いて、俺、生きているんだと、初めて気付いた」と語ったという。

 「父は、地震の発生からずっと気が張りつめたまま懸命に働いていた。自分の命のことを考える余裕がなかったのだと思います」と愛子さんは話す。

 すぐに医療チームに加わった愛子さんは、翌日、指揮を執る父から、「愛子先生は各避難所の医療ニーズを調べてきてください」と役割を振られた。避難所には寝たきりの人、人工透析が必要な人、高血圧や糖尿病で薬がない人、精神疾患を抱えた人ら、医療が必要な人でひしめいていた。しかし、薬も医療者も医療用具もない。その年の4月から、県立中央病院で後期研修を受ける予定だったが、現場を見て、残ることを決めた。

 「後期研修なんていつでもできる。こんなにすごいごたごたが復興していく過程には一生に1度かかわれるかどうかなんだから、経験しておいた方がいいよと話したら、娘も納得してね」と石木さんは当時を振り返るが、愛子さんは父に言われるまでもなく、自分自身で気持ちを固めていた。

 「まず、医師として目の前にやるべきことがたくさんあったし、やるべきだろうとしか思えませんでした。もう一つ、娘として父を一人で陸前高田に残していくという選択肢はなかった。母もいないし、着の身着のままで被災して何も残っていない。生活のサポートや精神的な支えがないまま、この大変な業務量を父にさせるということは、家族としてどうしてもできなかった」と愛子さんは言う。

 いったん盛岡に戻って、指導医の許可を得た上で、長期出向の形を取り、愛子さんは高田病院で働くことになった。

 夜は職員全員が雑魚寝をしている部屋で並んで眠った。震災後、石木さんは一人で眠ることはほとんどなかった。

 「互いに泣いた顔を見せたことはないと思うよ」と石木さんは振り返る。しかし、愛子さんは違う記憶を持っている。

 「夜、時折、父が泣いているのに気付くことがありました。黙ってそばにいましたが、それは娘ですから気がつきますよね……」

 高田病院の診療機能が停止したため、隣の県立大船渡病院に患者は殺到していた。高田病院を早く診療再開させるため、救護所運営は別の医師に任せ、石木さんは検査体制と調剤薬局の整備に奔走した。

 その傍ら、盛岡に行く用事がある時は、娘と共に遺体安置所に寄って、妻を捜した。見つかってほしいという気持ちと、見つかってほしくないという気持ちとが交錯する中、震災から3週間後の31日午後、妻が見つかった。色や形が特徴的な靴が決め手だった。ほぼ間違いないとわかった時は、2人で放心状態だった。

 「ようやく見つかったと、ほっとした思いはあったね。もう安置所に捜しに行かなくていいんだという思いも正直あった」。3週間ぶりの再会。しかし、33年連れ添った妻との別れを、ゆっくりと悼む時間はなかった。

 検査や薬局の体制のめどがつき、4月4日には高田病院が一般診療を本格的に再開することが決まっていた。これからの再建について、職員全員で話し合ったその日の夜が通夜で、その後数日で葬儀などすべての儀式を終えた翌日には、すぐに仕事に戻った。

復興への長い道のりが始まった。

 (続く)

【略歴】石木幹人(いしき・みきひと)
 岩手県立高田病院前院長、県医療局名誉院長、陸前高田市の在宅療養を支える会チームけせんの和会長、陸前高田市地域包括ケアコーディネーター
 1947年、青森市生まれ。71年、早稲田大学理工学部卒。79年、東北大学医学部卒。岩手県立中央病院呼吸器外科長兼臨床研修科長を経て、2004年、岩手県立高田病院院長。11年3月、東日本大震災で同院が全診療機能を失い、妻を津波で亡くしながら、診療を続ける。14年3月に岩手県医療局を退職後も陸前高田市に残り、地域医療の復興に携わっている。
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岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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