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東北大病院100年

医療・健康・介護のニュース・解説

第3部 東日本大震災(2)自らの経験 患者ケアに 両親失った看護師

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第3部 東日本大震災(2)自らの経験 患者ケアに 両親失った看護師

津波で亡くなった酒井さんの父・大友次雄さん(左)と母・すゑ子さん(酒井さん提供)

 東日本大震災で被災した沿岸部から患者を受け入れた東北大病院(仙台市青葉区)では、看護師約1000人が対応に追われた。ピークは震災8日後の3月19日。人工透析を受けるために沿岸部の病院から北海道へ移送する途中に一時的に受け入れた約80人を含む約120人の入院患者が殺到した。80歳以上の患者も多く、看護部長の門間典子(59)は「食事の介助や見守りも必要で、病棟は多忙を極めていた」と振り返る。

 出身地が全国にまたがる医師と違って、看護師の多くは県内か近隣県出身。沿岸部に実家がある人も少なくなかった。実家が津波で流されたり、家族を亡くしたりした人もいた。

 看護師の酒井由里(54)は津波で、名取市閖上地区に住む父の大友次雄(当時87歳)、母のすゑ子(同85歳)、両親と同居する兄の千代志(同57歳)の3人を亡くした。

 自身が突きあげるような揺れを4回感じたのは、名取市の自宅にいた時。内陸だったため、津波の被害はなく、夫と子供2人の無事を確認した後、夜勤に入った。被害の甚大さを知ったのは翌朝。実家近くが海に沈んだ地元紙の写真に絶句した。

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忙しい仕事の合間に職場の後輩と談笑し、笑顔を見せる酒井さん(左)(1月28日、東北大病院で)=冨田大介撮影

 避難所を何度も回ったが、3人はどこにもいない。3人の遺体が確認されたのは震災から3週間が過ぎた4月初旬。車の中で、兄が両親に暖かい服を着せ、連れて逃げる途中だったという。

 酒井は6人きょうだい。貧しかったが、漁師の父、水産加工場に勤務していた母が寝る間を惜しんで働き、看護師への道を開いてくれた。

 震災後の職場は、考える暇がないほど忙しかった。帰宅する車の中で一人になると、両親との思い出があふれ、涙が止まらなかった。その一方、「もっとつらい人もいる。感傷にひたっている場合ではない」と自らを 叱咤しった した。

 「無理に忘れなくていいのです」。その年の12月に受けた看護師向けの研修。大切な人を突然亡くした人の心の変化を学ぶ内容で、講師の言葉が印象に残った。

 患者の心理を知るための研修だったが、自分に問いかけられている気がした。両親のことを無理に早く忘れようと思っていたが、心が軽くなった。

 震災から間もなく5年。酒井は4月から、産科部門の看護師長になり、約50人の部下を抱えることになる。「震災を経験して強くなれた。患者さんや若い部下の気持ちをしっかりと受け止められる看護師でありたい」

(敬称略)

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