東北大病院100年
医療・健康・介護のニュース・解説
第3部 東日本大震災(1)おなかの子 私が守る 家族亡くした妊婦
東日本大震災では浸水を免れた沿岸部の病院に患者が殺到した。東北大病院(仙台市青葉区)は沿岸の病院からヘリコプターで搬送されてくる多くの患者を受け入れるなどの「後方支援」にあたった。震災から間もなく5年。医師や看護師、患者らは当時、何を思い、どう行動したのか。得られた教訓とともに紹介する。(敬称略)
おなかに赤ちゃんがいる大事な時期に、家族の行方がわからない――。震災後、東北大病院には、極限状態に置かれた2人の妊婦がいた。
ともに切迫早産で入院していた及川ゆかり(38)と小野寺ふみ子(40)。気仙沼市の同じ中学出身で顔見知りだった。約1か月前に同市立病院から転院してきた及川は、夫で南三陸町職員の
周産母子センターの医師、菅原準一(51)(現・東北大東北メディカル・メガバンク機構教授)は2人がずっと気になっていた。ただでさえ安静が求められる切迫早産なのに、ストレスは母体とおなかの子供に悪影響をもたらす。沿岸から次々と搬送されてくる妊婦の対応に菅原ら医師や看護師が追われる中、2人のケアにあたったのは、臨床心理士の奥田弥生(34)だった。
2人の心は揺れていた。及川は自宅が流され、義父母や5歳だった長男らは避難所にいた。小野寺は自宅は無事だったものの、母や14歳だった長男は不自由な生活を余儀なくされていた。「生きていてほしい」「自分だけ安全で快適な場所にいていいのだろうか」。希望や罪悪感、不安がごちゃ混ぜだった。
そんな思いを抱える2人を、奥田は毎朝訪ね、ただ耳を傾け続けた。入院している他の妊婦には家族が見舞いに訪れていた。それを見ながら、同じ境遇の及川と小野寺は「がんばろう」と励まし合った。
真が遺体となって見つかったのは4月下旬。南三陸町の防災対策庁舎の屋上で津波にのまれた可能性が高かった。「責任感の強い人だった。最後まで町の人のために職務にあたったのだろう」と及川は思った。
「帰らせてほしい」。及川は数日後の夜、目に涙を浮かべて菅原に懇願した。せめて火葬には立ち会いたかったからだ。
「あなたとおなかの赤ちゃんにとって大事な時期。帰すわけにはいかない」。菅原の言葉に、及川は我に返った。「残された私が赤ちゃんを守らないといけない」
小野寺も犠牲になった父の葬儀に出たいと願ったが、認められなかった。「家族思いだった父に最後のお別れもできないことは何よりもつらかった」と語る。
2人の気持ちが和らいだのは、生まれ来る我が子を思う時だった。看護師らは周囲に呼びかけて、お古のベビー服を集めてくれた。「赤ちゃんの顔を思い浮かべながら選んでいると心が楽になった」と口をそろえる。
及川は5月に女の子を出産。「せめて名前だけでも父親の愛情をたっぷりと受けてほしい」と、
菅原や奥田は震災から1年以上過ぎた後も、何度も気仙沼を訪ねた。震災を経験した母子の健康状態が気がかりだったからだ。菅原は「2人の子供が順調に成長していることが何よりもうれしかった」と振り返る。真乃愛は花屋に、皇成は新幹線の運転士になるのが夢。若葉の頃、ともに5歳を迎える。
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