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原隆也記者のてんかん記

闘病記

被災地取材と妻との出会い

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 小中学生に新聞がどう作られているかを伝える部署での勤務が2年たち、現場の記者として復帰することが決まりました。東日本大震災の復興情報を担当することになり、被災地を支援する人々とその活動を取材することになりました。また、睡眠不足にならないよう、夜勤や泊まり勤務は免除となりました。

被災地取材と妻との出会い
被災地取材と妻との出会い
被災地取材と妻との出会い

児童と教職員84人が死亡・行方不明となった石巻市立大川小学校の校舎

 それまで被災地に足を運ぶことがなかったので、復興情報を担当するにあたり、自分の目でしっかり見ようと、休日に友人を道連れに東北沿岸部を目指しました。

 宮城県気仙沼市から南三陸町、石巻市の沿岸部を巡りました。気仙沼では土台だけを残してなくなった家の跡を目の当たりにしました。ここで暮らしていた人たちはどうなったのだろう、以前は家人がだんらんしていたのだろうか、と思いをめぐらせました。そして、南三陸へと下りました。

 海岸段丘を抜けて沿岸部の平地に出ると、急に視界が広がりました。そこは本当に何もない、ただ砂利が広がる荒涼とした空間に、所々がれきの山が積まれ、その中をダンプカーが砂煙を巻き上げて行き交っていました。震災から2年が経ようとしていましたが、復興への道のりの長さを考えさせられました。

 そして、骨組みだけになった防災対策庁舎から多くの児童と教職員が犠牲となった石巻市の大川小学校へと足を延ばしました。いずれも献花と手を合わせる人の姿が絶えませんでした。大川小では児童が使っていたと思われる教材のかけらが校舎の周囲に残り、胸が締め付けられる思いがしました。

 そうした被災地に向けて、歌で勇気づけようとするミュージシャンや、ヒマワリの花で元気づけ街おこしにつなげようとするボランティア、自分が使っていた参考書を送って勉強を助けようとする大学生たちの取り組みを取材し、記事にしました。

 そんなときに今の妻と出会い交際を始めました。お互い結婚も意識し始めたところで、私の中に問題が持ち上がりました。「病気のことを明かすべきか、隠すべきか。明かしたら本人はどう思うか、向こうのご家族はどう思うか」。一番親しい友人は「今はまだいいのではないか」と助言をくれました。将来子どものことを考えたときに、遺伝しないかどうか大丈夫なのか、ということを言った友人もいました。

 私は結局、隠すことを選択しました。結局、後にばれたのですが、ありがたいことに、隠していたことを理由に結婚生活が破綻することもなく、今も普通に過ごしているので、妻には感謝しなければいけません。

 今思い返すと、隠したのは、自分でも言うのがはばかれる病気という認識があったのだと思います。病気が原因で妻と別れなければならなくなることへの恐れもあったのでしょう。この時の判断が正しかったのか、間違っていたのか、それは今もわかりませんが、この当時、自分自身に病気への偏見がなかったのかと問われれば、答えはノーだと思います。

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原隆也(はら・りゅうや)
1974年、長野県出身。南アルプスと中央アルプスに囲まれた自然豊かな環境で育つ。1998年、読売新聞入社。千葉、金沢、横浜支局などを経て2014年9月から医療部。臓器移植や感染症、生活習慣病などを担当している。趣味は水泳、シュノーケリング。

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