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認知症の当事者団体共同代表、藤田和子さん

編集長インタビュー

藤田和子さん(1)45歳で診断 アルツハイマー型認知症に

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認知症の当事者団体共同代表、藤田和子さん

「認知症になっても、希望と尊厳を持って生きられる社会を作りたい」と話す藤田さん

 認知症になっても、希望と尊厳を持って生活を送りたい――。そんな社会の実現を目指して活動する当事者団体「日本認知症ワーキンググループ」の共同代表、藤田和子さん(54)。「若年性アルツハイマー病」と診断されてから8年半、家族のためにご飯を作り、友達との時間を楽しみ、講演活動をするなど、忙しい毎日を送る。「『認知症になったら、人生終わり』ということはなくて、生き生き過ごしている人もいるのだということを伝えたい。認知症は、家族が介護の大変さを訴える形で語られてきましたが、私たちが声を上げることで負のレッテルを拭い去り、これから認知症になる人も生きやすい社会にしたいのです」。誰もが認知症になる可能性がある超高齢社会で、私たちは今、どう動き出したらいいのだろうか。

◆◆◆

 昨年11月中旬、JR鳥取駅から徒歩5分ほどの鳥取市人権交流プラザで藤田さんと待ち合わせをした。ここは、藤田さんが地元で一緒に活動する仲間の職場で、診断を受ける前から通っていたなじみの場所。近所に住む藤田さんは、お一人でやってきてくれた。

 どんな質問にもユーモアをまじえて的確に打ち返す姿は、かつてマスコミで広められてきた、いわゆる「認知症の人」のイメージとはかけ離れたものだ。一方で、事前に「集中できる限界は1時間半」と知らされて、2日間にわたり、二度に分けてインタビューに応じてもらった。

 「私がしゃべっている姿を見て、よく『認知症に見えない』と言われるのですが、一つの講演、一つの取材をこなすまでには、気力や体力など、その日まで色々調整して準備をしなくてはいけません。話している間も、表には見えない緊張が常にあって、終わった後には脳がぱんぱんに膨れあがったような疲労感があります」

 認知症というと『もの忘れ』が注目されがちだが、ほかにも、記憶のしづらさや、情報を受け止めて処理する機能、注意力・判断力の低下など、本人にとっての重大な問題は多岐にわたる。

 「例えば、お風呂に入っていても、シャンプーをしたのかリンスをしたのかわからなくなって、今シャンプーしているぞ、今リンスしているぞと、いちいち一生懸命意識しながらやらなくちゃいけないので疲れてしまうのです。ほかの認知症の方もよくおっしゃるのですが、水鳥が優雅に泳いでいるようでも、水面下では懸命に水かきを動かしているのと同じような苦労を毎日毎日繰り返しています。皆が何気なく行っている家事や買い物などの日常生活の動作も、『たったそれだけのこと』ができずにおろおろして、ほかの人から見るとちぐはぐに見えてしまう。その大変さがほかの人に理解してもらえなかったり、手助けしてもらえなかったり、失敗を責められたりすることがつらいのです」

 異変に気付いたのは、2007年春のことだった。当時は、サラリーマンの夫と、看護学生の長女ら3人の娘との5人暮らし。認知症の義母を9年介護して看取みとった後、パートタイムの看護師として近くの個人病院で働いて8年がたち、PTA役員や家事もこなす忙しい毎日を送っていた。

 そんなある日、買ってきたゼリーを食べようと冷蔵庫を開けたら、なぜか見あたらない。「お母さんのゼリー食べた?」と聞くと、娘たちは、「何言ってるの、お母さん。よく思い出して」といぶかしげな顔をした。よくよく思い返すと、確かに朝、食べた記憶がよみがえってきた。

 「それまでも友達との約束を忘れたり、同じ話を繰り返していると指摘されたり、おかしいなと思うことが続いていました。でもこれは、通常のもの忘れとは明らかに違う感触がありました。何が自分の中で起きているのか知りたくて、絶対に病院に行くべきだと思ったのです」

 たまたま知り合いが、心の不調で病院にかかったばかりで、自分の記憶の問題もその状態に似ていると考えた。最初に受診したのは、その知り合いが通っていた心療内科。だが、その医師からは、「この記憶の問題は、脳から来ているものだと思いますから、まず脳を調べた方がいい」と言われた。別の総合病院の脳神経内科を改めて受診した。

 

 磁気共鳴画像(MRI)で脳の画像を撮り、脳血流シンチグラフィーという検査で脳内の血液の巡りを調べ、認知症の簡易テスト「長谷川式認知症スケール」に答えた。

 「長谷川式は満点に近かったのですが、MRIでは記憶をつかさどる海馬にわずかながら萎縮が見られ、アルツハイマー病特有の脳血流の低下も見られて、『若年性アルツハイマーの疑いがある』と言われました。『やっぱりそうなのか』とショックを受けている時に、先生からは『薬はどうしますか?』と聞かれて、混乱して……」

 勤めていた個人病院で、当時唯一のアルツハイマー型認知症の薬だった「アリセプト(一般名・ドネペジル)」の勉強会に参加した時のことを思い出した。「効果は2~3年」と説明されていた。

 「2~3年しか効果がないなら、私はいつ飲み始めるべきかと悩みました。私はまだ大丈夫と思いました。それに、処方された薬を薬局で受け取る際、薬剤師やその場にいる人にアルツハイマー病のことを知られることも嫌だったのです」

 

 薬は飲まずに過ごすことを決め、その後も日常生活での混乱は続いていた。スーパーでは、何を買いに来たのかを忘れてしまい、一品一品思い出しながらカートを押して歩くこともあった。冷蔵庫を開けると、箸がしまってあることもあった。顔を洗っている時、ふと、「これから石鹼せっけんで洗うのか、いま、すすいでいるのか」分からなくなることもあった。結局、再受診を指示された1年後まで、混乱を抱えたまま一人で頑張り続けた。

 職場では、同僚にも自分の状態を打ち明け、看護師の仕事を続けたが、ミスが許されない医療現場は緊張の連続だった。帰宅するとぐったり布団に倒れ込む日々が続き、家族に当たることもあった。「このままではいつかミスをして患者さんや職場に迷惑をかけることになる」と判断し、08年3月には辞表を提出した。

 

 「不安とストレスが重なり『自分はなぜこんなことになったのだろう、なぜ?』と考えたこともありました。家事と仕事、義母の介護を一生懸命にしながら、3人の娘の子育てもしてきた。私一人で抱え過ぎたのかとも思いました」

 そんなストレスが頂点に達したある時、号泣しながら夫につかみかかり、過呼吸になって、自分もその場にへたり込んで泣き続けた。そんな藤田さんを娘たちは、「お母さん、ほたる見に行こう」と肩を抱いて、車で外に連れ出してくれた。公園で蛍が飛び交う季節だった。娘たちと歩いているうちに、心が落ち着くのを感じた。家族はいつも藤田さんに寄り添ってくれた。

 1年後、現在の主治医である専門医にかかり、改めて検査を受け、「若年性アルツハイマー病」と診断を受けた。薬の効果について丁寧な説明があり、処方開始となった。医師は言った。「一緒に頑張っていきましょう。いい状態を保つために、私にできることはしますよ」。抱えてきた混乱の原因が明確になったことで、ほっとした。医師も自分の身に起きていることを知ろうとしてくれていると感じ、安心した。薬を飲み始めると、日常生活が送りやすくなった実感があった。

 「1年から2年たつとまた足りない感じになって、薬の量を少しずつ増やし、今は8ミリグラムです。次で(最高量の)10ミリグラムになるから、だんだん先のないような気持ちになっていたのですが、『新薬も出て、今後も色々組み合わせることができるから大丈夫』と、先生から励ましていただいています」

 しかし、治療を開始した当初は、気持ちは常に揺れ動いた。

 「調子がいいと今までと同じように生活できるので、『アルツハイマー病じゃないみたい』と思うこともあったのですが、しばらくすると、またできないことが現れてがっくりします。『何でうまくいかないんだろう、思うようにいかないんだろう』『いつまでこの状態でいられるんだろう』という不安もあったし、『そのうちダメになる』と思うと苦しくなりました。『どうせ、私はみんなに迷惑をかける存在になるんだ』と思うと、悲しく、絶望的になりました」

 そんな気持ちを家族は受け止めてくれた。同じことを何回言ったとしても、それを指摘することはなかった。失敗を笑いにかえるような話し方をしてくれた。誰も自分を責めなかった。

 藤田さんは、「自分にできること、したいことを続けたい」と願い、好きだった料理を作り続けることを頑張った。家族の誰よりも美味おいしい料理を作ることができる自信がある。料理だけではなく、家の切り盛りの多くを担っている自分がいる。認知症になっても、家族に支えられるだけの存在ではなくて、家族を支えている存在でいられるのだと気づいた。

 「私は、外で働いている夫や娘が、疲れて帰ってきたらご飯を食べられる状態で待っていてあげたい。私が料理することに集中できるように、家族は洗い物や掃除などほかの家事を手伝ってくれています。品数は減りましたが、しんどい時も頑張って作って、帰宅までに間に合わせて、『おいしい』と食べてもらうと達成感がある。好きなことをやり続けて、誰かのためになっていると思えることが私にとってはとても大きいし、脳の活性化にもつながっていると思うのです。それには、自分の人間関係の中で重要な家族や友達、仲間たちの理解と支えが必要です。自分に起きたことが明確になり状況を理解する。周囲の人たちも、本人がどういう状況にあるかを知ろうとし、配慮していく。そうやって、うまく認知症と付き合っていけば、進行も遅らせることもできるかもしれないし、認知症になってからも、今までのイメージとは違ってもっと日常生活もスムーズになるし、何より充実感ある生活を送ることができると思うのです」

(続く)

【略歴】藤田和子(ふじた・かずこ) 日本認知症ワーキンググループ共同代表

 1961年生まれ。鳥取市在住。市内の総合病院に7年、個人病院に8年勤務。認知症の義母を9年間介護した経験を経て、2007年6月、若年性アルツハイマー病と診断される。10年11月「若年性認知症問題にとりくむ会・クローバー」を設立(14年にNPO法人化、現在副理事長)。11~13年、鳥取市差別のない人権尊重の社会づくり協議会委員。14年10月、日本認知症ワーキンググループ設立に参加し、現職。

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岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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1件 のコメント

個人と共同体の大切さ

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多くの方々が同じ感想を抱いておられるかもしれませんが、「家族に支えられるだけの存在ではなくて、家族を支えている存在でいられるのだと気づいた」とい...

多くの方々が同じ感想を抱いておられるかもしれませんが、「家族に支えられるだけの存在ではなくて、家族を支えている存在でいられるのだと気づいた」という点が、認知症に限らず、人生のあらゆる困難を乗り越えるのに必要な信念であるに違いないと思わされました。まだ私個人や家族にも認知症を患う者はおりませんが、そのくだりで、人と人のつながりのありがたみを再認識させられて泣けました。

「自分はお荷物だ」という間違った思い込みは人の心に破壊的な影響をもたらします。しかし家族や親戚一同や地域のコミュニティにとって個人を失うことは大きな痛手です。共同体はそれだけ個人に依存しているはずなのですね。

結婚していない方も家族のない方も、何らかの共同体に属することはとても大切なことなのだと思いますが、今日では以前のような強い絆で結ばれた共同体はありません。昔は村の中心に寺や神社や教会や寄合所があって、子どもの誕生・困窮世帯の救済・結婚の相談・新たに結婚した家庭の支援・屋根の葺替え・家の新築・病人の世話・葬式の世話、などを通じて互いが直接関わり合い、助け合うシステムが存在しました。

今日では「うざったい」と敬遠され、たしかに「しがらみ」と呼ぶにふさわしい悪習も生まれることがありましたが、それでも共同体は個人が生きる意味を見出すための豊かな土壌でもありました。が、今はもうありません。共同体を持たない個人はかわいそうです。政府の官僚による福祉制度はそのような共同体の代わりになりません。

まだお会いしたこともない「藤田さん」による認知症の世界の活き活きとした描写を通じて、今の私たちには「家族より少しだけ大きめ」の範囲をカバーする昔ながらの共同体の復活が必要だと私個人は感じました。人は個人であると同時に共同体の一部でもある(あらねばならない)と思います。

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