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原隆也記者のてんかん記

闘病記

震災発生、自宅待機…「現地取材できないなんて」

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 2011年2月に着任した新たな部署での仕事は、大きく分けて、①日々発行される読売新聞の記事から、主に小中学生向けの問題集を作成し、各学校にメールやファクスで配信する事業と②依頼を受けた小中高校に赴き、新聞がどのように作られているかを解説し、記事作成を手ほどきしながら体験してもらう出前授業でした。

 ほかの会社で言えば、CSR(企業の社会的責任)の一部を担っている部署と言えます。同じ会社にいて「こんな仕事もあったんだ」と感心し、少しずつ仕事を覚えていきました。着任から1か月半ほどたち、職場にも慣れてきた頃に「あの日」がやってきました。

 3月11日午後、仕事も一段落し、社内で休憩していたときに、揺れを感じました。「地震だ」。と思っているうちに、横揺れが大きくなり始めました。「大きい!」。慌てて職場に戻ろうと駆けだしました。階段を駆け上がろうとしましたが、あまりの揺れの激しさに壁に手を付いて立ち止まらなければならないほどでした。目の前の壁がミシミシと不気味な音をたてました。

 職場に戻ると、テレビのニュース速報が大地震の発生と大津波警報の発令を伝えていました。当時、読売新聞東京本社は千代田区大手町の社屋建て替えに伴い、中央区銀座の旧日産本社社屋に一時的に移転していました。窓から築地方向を見ると、ビルから煙が上がっていました。「大変なことになった」。そう思っているうちに、テレビでは東北地方各地に津波が押し寄せる様子が映し出されました。大雨などの水害で見られる濁流とは全く異質の、過去に見たこともない真っ黒な水が家や田畑をのみ込んでいきます。

 暗くなると、津波に襲われた地域で火の手が上がりました。さらに、福島第一原子力発電所が危機状態になったと伝えています。絶望といった感情を抱くよりも何も考えられず、ただただ目の前の現実を受け止めるしかありませんでした。

 停止していた鉄道などの交通網も深夜になると一部動き始め、上司の指示で帰宅しました。以降、しばらくの間、自宅で待機することになりました。

 日々のテレビや新聞では、東北地方の津波被害が甚大で、犠牲者が多数に上っていることや福島第一原発が爆発し、多くの人が避難しなければならないことを伝えていました。スーパーやコンビニエンスストアからはまず弁当やおにぎり、総菜などが消え、次に肉などの生鮮食品がなくなりました。実家の母が以前に送ってくれて残っていた野菜と缶詰のコンビーフでスープを作ってしのぎました。

 1週間後に出社すると被災地で取材にあたっている記者のために、物資を送る作業などに加わりました。

 戦後最大の惨禍となったこの震災を、「記者でありながら現地に入って状況を伝えられずにいていいのだろうか」とじくじたる思いを強くしました。

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原隆也記者のてんかん記_201511_120px

原隆也(はら・りゅうや)
1974年、長野県出身。南アルプスと中央アルプスに囲まれた自然豊かな環境で育つ。1998年、読売新聞入社。千葉、金沢、横浜支局などを経て2014年9月から医療部。臓器移植や感染症、生活習慣病などを担当している。趣味は水泳、シュノーケリング。

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