ケアノート
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[安岡力斗さん]生体肝移植、64%を提供…父へ恩返し 迷いなし
歌手や俳優として幅広く活躍した安岡力也さんは、肝臓がんを患い、2012年に65歳で他界しました。父の命を救おうと、生体肝移植で自らの肝臓を提供した長男の力斗さん(29)は、「当時の決断は、今も全く後悔していません」と振り返ります。
05年がん発見
「力斗、パパに君の肝臓を3分の1、くれないか」。父にそう言われたのは、10年夏のことでした。
180センチ、100キロを超える巨漢で、若いときは誰よりも丈夫だった父ですが、実は02年ごろからは闘病続きでした。肝臓に水がたまる病気で肝機能が低下し、大好きだった酒も禁じられました。
05年には肝臓に小さながんが見つかり、腹腔鏡手術で取り除きました。その後も、小さながんが見つかるたびに、手術を繰り返しました。
父は母と離婚しており、当時は私と2人暮らし。病気のことは父も私も悲観しておらず、「また見つかったら、手術で取り除けばいい」と考えていました。父は芸能活動も続けていました。
ところが翌年、父が「体が痛くて眠れない」としきりに訴えるようになりました。原因がなかなか分からず、弱音を吐かなかった父も「ひょっとするとオレ、やばいかもしれないな」とこぼすようになりました。何度も診てもらい、ようやく「ギラン・バレー症候群」と診断されました。
ギラン・バレー症候群は、体の免疫システムが暴走し、運動神経を誤って攻撃してしまう難病だ。手足のしびれや筋力の低下など、感覚障害が急速に進行し、歩行などが困難になる。
父は見るからに筋肉が落ち、手も足も自由に動かせない。芸能の仕事もできなくなり、山梨県のリハビリ専門施設で回復に努めました。私も仕事の合間に施設を訪れて励ましました。
1年以上のリハビリのかいもあり、父はつまずきながらも自分の足で歩けるようになりました。ただ、この間、肝臓の治療は中断しており、帰京後に診察してもらうと、がんが進行して肝臓がほとんど機能していない状態でした。医師からは「このままだと余命は1か月ぐらい」と宣告されました。
周囲の猛反対
力也さんに残された唯一の方法が、生体肝移植だった。検査の結果、力斗さんの肝臓が移植に適していると分かり、力也さんの求めもあって、10年に手術に踏み切ることになった。
父の友人たちや母は、こぞって移植手術に猛反対しました。「さんざん遊んだツケが回った結果なのに、何でお前が危ない目に遭わないといけないんだ」と口をそろえるのです。
でも、父は褒めることはあっても、めったに叱ることのない優しい人で、ずっと憧れの存在でした。そんな父が「もう一度、芸能界に戻りたい。テレビにも出たい」と願っている。恩返しするにはこれしかない。迷いは一切ありませんでした。
父の肝臓は予想以上に弱っており、私の肝臓は当初予定の3分の1では足りず、限度ぎりぎりの64%も移植しました。手術は42時間に及びましたが、無事に成功しました。
最後の乾杯
だが、すでにがん細胞は肝臓以外にも潜んでおり、肺や骨、皮膚にも転移していった。腎臓などの機能も低下し、力也さんの容体は悪化する一方だった。
主治医からは「医師として施すことはもうありません。余命は長くて1年。その間に思い出をつくってあげてください」と言われました。
12年2月、父や父の友人らと熱海温泉に旅行に出かけました。父の体力では1泊がやっとでしたね。
私たちが手助けして、車いすに乗ったまま温泉に入った父は「こりゃ、いいや」と、久しぶりに笑顔を見せました。病院では入浴していなかったので、本当に気分が良かったのでしょう。
入浴後、みんなでビール片手に乾杯しました。私が成人した時は、すでに父は断酒していたので、これが最初で最後の父との乾杯でした。父はコップに口をつけてなめるぐらいでしたが、「うまいなあ」と満足げでした。
翌日に病院に戻った父は、その2か月後、世を去りました。「力斗、本当にお前はパパのエンジェルだなあ」。それが父の最後の言葉でした。
今、私は千葉県内の建設会社に勤務しながら、テレビドラマに出たり、インターネットのラジオ番組を担当したりと、タレントとしても活動しています。父と同じ道を歩き始めました。「父の大きな背中をずっと追いかけていこう」。その一念で進みます。(聞き手・田中左千夫)
やすおか・りきと 1986年、東京都生まれ。2006年から力也さんの友人が経営する建設会社に勤務。14年からは芸能事務所に所属し、タレントとしても活動する。同年、父との生活をつづった著書「ホタテのお父さん」(東京キララ社)を出版した。
◎取材を終えて 力斗さんから、幼少からの力也さんとの写真を見せてもらった。「こわもて」の印象が強かった力也さんだが、親子2人での表情は柔和そのもの。親密ぶりがうかがえた。力斗さんの腹部には、生体肝移植の痕がくっきりと残っている。あえて目立つように縫合してもらったのだという。自らを危険にさらしてまで父を長く生かしたいという強い思いが、60センチの手術痕に込められているように見えた。
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