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HIV陽性者団体の代表、高久陽介さん

編集長インタビュー

高久陽介さん(3)活動の原点 受け止めてくれる誰かを

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HIV陽性者団体の代表、高久陽介さん

 2001年、保健所で検査を受けてHIV陽性であることがわかった3日後、それまで比較的冷静に受け止めてきたはずの心に、不安が渦巻き始めた。

 「夜に一人で考え込んでいると、自分はもう恋愛してはいけないんじゃないかとか、同居している親に言わなくていいのだろうかとか、鼻をかんでゴミ箱にティッシュを捨てちゃったけれども、それを親に捨てさせて大丈夫なのだろうかとか……。だんだん色々なことが心配になってきたんです。会社でも言わなくていいのか、逆に言わなくてもばれてしまうことなのか。だんだん細かいことが具体的になってきて、心配でたまらなくなってきました」

 自分一人では抱えきれない。そんな気持ちに押しつぶされそうになった夜、思い出したのは、HIV陽性を打ち明けてくれた大好きな彼だった。気まずい別れ方をして以来、連絡を取っていなかったが、深夜に家を出て公園に向かい、そこで電話をかけた。

 「話を聞いてくれるかどうかもわからなかったのですが、電話に出た彼はすごく親切に、『会社に言うか言わないかはゆっくり考えればいい。今すぐ決めないほうがいいよ』とか、『その病院だったら患者をたくさん診ているところだから大丈夫だよ』とか、同じ経験をしている仲間の立場で教えてくれました。『自分は家族に話しているけれど、君が話すかは親との関係にもよるし、今すぐ考えなくてもいいと思うよ』とか優しく教えてくれて落ち着きましたね。本もパンフレットもたくさん読んだし、病院でもたくさん説明を聞けるのですけれども、同じ立場の人がどうしているのかということをリアルに聞けるというのはすごくありがたかったです。知識だけじゃだめなんでしょうね。知識や情報だけでは落ち着く材料になり得ない。一人では乗り越えられないのでしょう。この時の経験が、自分の活動の原点になっています」

 病院に行くと、免疫力を示す検査値はそれほど下がっておらず、すぐに治療は必要のない状態だった。しかし、自分が陽性だと思うと、すぐに恋愛をすることはできなかった。

 「最初は優しくアドバイスしてくれた彼と、陽性同士なら付き合いやすいのではないかということも考えたのですが、そう思ってしまう自分も嫌で、その後は、自分の方から彼と距離を取ってしまいました。この人に甘えてはいけないという気持ちもありました。誰にも感染を知らせていなかったし、彼と会う度にHIVを意識しなくてはならなくなるのも嫌でした。病院に行く時間以外に、とりあえず横に置いておきたい問題をプライベートで意識する時間を持つという心の準備ができていなかったんです。彼に会う度にしんどくなってしまうのはつらいことでした。新宿2丁目にもしばらく行きませんでしたし、もう自分は、してはいけないのではないかと思って、セックスも1年以上できませんでした」

 今は、HIV啓発のパンフレットや資料には、感染予防のため避妊具を使う方法も書かれているが、当時はそのような情報は書かれていなかった。

 「そこに書かれていないから、当然、感染したらしてはいけないのだろうなと思っていましたね」

 約1年たち、当初のショックも落ち着いて、感染したことに意味を見いだしたいとHIV啓発のボランティアを始めた頃、ゲイの親友に自分の感染を打ち明けることを決めた。

 「唯一感染を知っている彼とも疎遠になってしまったし、本当の自分を知っている人が身近に誰もいなくなってしまったんです。新宿2丁目に通い始めたばかりでゲイであることを受け入れられる場所はたくさんできて、本当の自分を隠さずにいられる解放感を一度得て、気持ちも開いていた時に、またHIVという秘密を持ってしまった。また自分のことを誰も理解してくれないという不安やさみしさに耐えられなくなっていたんですね。だから親友にだけは伝えたいと、思うようになったんです」

 2001年の年末、「忘年会しよう」と、親友を居酒屋の個室に呼び出した。どう思われるのだろう。もしかしたら友達でいられなくなるのかもしれない――。そんな悲壮な覚悟をもって、「実は話があるんだ」と切り出し、「HIVに感染していることがわかって」と打ち明けた。

 「そうしたら、『へえー、ああそうなんだ。病院とか行っているの?』と軽い感じで聞かれて、『治療を受けているなら大丈夫じゃない? 早く分かって良かったね』と明るく言われたんです。死ななければいいんじゃない?というような軽いノリで」

 結局、HIVの打ち明け話は5分ほどで終わり、後はいつもの飲み会に突入した。

 「『早く分かって良かった』という言葉で、ああ確かにそうだなと素直に思えたし、ああ、カミングアウトってこんな感じなんだとほっとしました。ほかの人の手記を読むと、本人も相手も泣きながら受け止めてというような重苦しいものが多かったので、自分の場合はさっぱりしていて、それがすごく良かったなと思いました。重く受け止められると、友達として一緒にいづらくなりそうなのが怖かったんですよね。友達に重荷を背負わせてしまうことになるのが怖かった。そういうふうに軽く、淡々と受け止めてもらった方が、その後も同じ関係を続けやすいです。今もその友達とは続いています」

 その後、仕事は続けながら、「日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス」での当事者活動や、HIVの予防啓発活動をしている団体での予防啓発活動に取り組んだ。2008年には「エイズ予防財団」に研究員として就職。この転職の時に、同居している母親に打ち明けたが、やはり淡々と受け止めてくれた。ジャンププラスにも研究員として勤務するようになり、HIV陽性者の視点から、HIVについての正しい情報が届かない層にどのように届けるかという研究をし、メディアに研究や活動の成果を説明する過程で、自然に自分がHIV陽性者であることをオープンにしていこうと思った。

 「会社員でいる時は、やはり生活の糧を失うことはできないので、言えませんでしたが、こうした研究職になり、陽性者全体のことを考える立場になると、リアリティーを持って伝えたいと思うようになった。自分の場合はそれができる立場にあったので、自然に陽性であることを隠さない覚悟ができたのでしょうね」

 当事者活動を始めた当初から力を入れていたのは、陽性者同士の交流の機会作りだ。小さい交流会は年間7~8回行い、ほかのHIV支援・啓発団体と共同で、全国的な交流会も日本エイズ学会に合わせて毎年開いている。

 「小規模の時は5~20人ぐらい、全国交流会は30~50人が集まりますが、それでものすごく勇気づけられたとか、自分一人ではないことがわかってほっとしたという声がアンケートでも届いています。私が感染がわかった直後に、陽性者の彼と話せて落ち着けたように、やはり当事者同士の交流で得られる情緒的な安定はすごく大きいのですね」

 全国の陽性者とつながる手段として、もう一つ、ジャンププラスが2006年夏から続けているのが、ニュースレターの発行だ。医療・介護情報や差別・偏見と闘うための法律家ら専門家のインタビューから、陽性者の生の声、海外の団体との交流の報告など、最初は2ページから始まったこの発信は、今ではカラー版8ページにもなった。HIV治療の拠点病院などに5000部を発行し、ジャンププラスのホームページでもすべての号を公開している。

 「盛りこみ過ぎだとも言われるのですが(笑)。会員制は取っていないので、本当に当事者に届いているかはわからないのですが、どこかでつながってほしいなと思っています。陽性者8割以上がゲイとも言われ、孤立しやすいと言われている陽性者がつながる、ネットワークを作るということが、当初からの方針です。誰かに受け入れられて、自分が救われた経験からも、情報を発信して、つながるということはこれからも大事にしていきたい活動です」

(続く)

【略歴】高久陽介(たかく・ようすけ) NPO法人 日本HIV陽性社ネットワーク・ジャンププラス 代表理事

 1976年、香川県生まれ。98年、法政大学経済学部卒業。不動産会社、エイズ予防財団などを経て、2011年4月にジャンププラス事務局長、14年6月現職。01年1月にHIV感染が判明し、それ以来当事者活動に熱心に取り組んでいる。

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編集長インタビュー201505岩永_顔120px

岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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