東北大病院100年
医療・健康・介護のニュース・解説
第2部 転換点(4)「壁」打破に先人の支援
初の女性教授 (2015年)
東北大病院(仙台市青葉区)の開設から100年となった今年、患者を診る「臨床系」の医師として初めて女性教授が誕生した。遺伝に関する相談に応じ、難病の研究をしている青木洋子(50)だ。
その知らせを誰よりも喜んだのは、女性医師を支援する県女医会の前会長で、同病院の医師を長く務めた山本蒔子(74)だった。「後輩が私の夢を実現してくれた。自分のことのようにうれしいです」
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東北大は1913年、文部省(当時)の反対を押し切り、国立大で初めて女子学生を受け入れた。同大が掲げる「門戸開放」を象徴する事例とされ、52年には女子医学部生も誕生した。
ただ、山本は「実際、女性は長く冷遇されてきた」と振り返る。山本自身、男女平等に扱われた学生時代を終え、「いずれ研究者になりたい」と希望を抱いて、65年に卒業すると、「見えない壁」に何度もぶつかった。
男性の新人医師には入局の誘いがたくさん来たが、「どうせ腰掛けだろ。女はいらない」と門前払いされることも多かった。医師の夫と結婚し、長女を出産後、すぐに仕事に復帰しようと保育所を探したが、市の窓口では「両親が医師では預かれない。低所得者向けの福祉事業ですから」と、断られた。男女雇用機会均等法が施行される20年近く前で、「女性医師が仕事と家庭を両立しようにも、社会の壁は厚く、行政の対応も遅れていた」と話す。
山本は、東北大病院の女性職員約30人と院内に保育所をつくろうと、大学当局との交渉を繰り返した。70年には、自身が「ことりの家保育園」と名付けた保育所が開設され、2歳だった長女を預けた。その後は、子供が急病の時に抜け出せるよう、男性の同僚や後輩が仕事の都合がつかないと、「私が代わります」と率先して手を挙げた。
専門である甲状腺の研究では、教科書に掲載されるなどの成果もあげた。子育てと診療、研究に明け暮れたが、男性の後輩たちにどんどん追い抜かれた。男性なら通常、数年で終える助手を15年間務め、失意のまま大学を去った。
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山本が県女医会に入ったのは86年頃だ。力を入れたのは、研究を顕彰する助成事業だった。「仕事と家庭の両立で、男性の何倍も努力を強いられる女性にとって、励みになるものを作りたかった」。会長だった2004年、助成候補として推薦されていたのが、難病「ヌーナン症候群」の原因遺伝子を研究していた青木だった。
助成金の授与式で、山本から「おめでとう」と言葉をかけられた青木は「まだ研究に自信がもてなかった頃の受賞で、大きな励みになった」と言う。山本は年明けにも、青木を県女医会の会合に招いて、教授就任のお祝いをする予定だ。
「女性医師が持てる力を十分に発揮できるのが当たり前」。そう言われる時代になるのを山本は心待ちにしている。(敬称略)
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