文字サイズ:
  • 標準
  • 拡大

東北大病院100年

ニュース・解説

第2部 転換点(1)女子高生の死 反省胸に

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

救命救急の碑 (2004年)

20151217-OYTAI50001-L

 東北大病院の正門前にそびえる高さ約3メートルの救命救急の碑。元病院長の山田章吾(67)は碑を建てるきっかけになった16年前の事故を一日たりとも忘れたことはない。

 1999年6月23日午後6時35分頃、病院正門前の歩道で自転車に乗っていた宮城一女高(現・宮城一高)2年の女子生徒(当時16歳)がバランスを崩して車道に倒れ、後ろからきた市バスにひかれた。「痛いよ」。苦渋の表情を浮かべていた。

女子生徒が亡くなった現場には今も花が供えられている(8日)

女子生徒が亡くなった現場には今も花が供えられている(8日)

救命救急の碑の前に立つ山田さん。「患者を第一に考える医療を続けてほしい」と後輩たちに注文した(8日、仙台市で)=冨田大介撮影

救命救急の碑の前に立つ山田さん。「患者を第一に考える医療を続けてほしい」と後輩たちに注文した(8日、仙台市で)=冨田大介撮影

 居合わせた誰もが、目の前にある東北最大の医療機関に搬送されると思った。ところが、女子生徒を乗せた救急車が向かったのは、約3キロ離れた別の病院だった。当時、東北大病院に救急部はあったが、現在の高度救命救急センターのように常時患者を受け入れていなかった。診療は夜間や休日に限られていた。

 研究第一主義を掲げ、不測の患者に対応する救急医療は研究の妨げになる――。そんな意識が大学側にあったのかもしれない。女子生徒は約3時間後、息を引き取った。

 「行ってきます」。朝、いつものように元気に家を出た娘がベッドで人工呼吸を受けていた。女子生徒の母(59)は搬送先の病院に駆けつけた瞬間、腰から崩れ落ちた。娘の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 新体操部の練習が終わり帰宅すると、リビングで片方の足を持ち上げて、クルクルと回った。「見て見て」。愛くるしい姿を父(61)は今も忘れられない。

 「目の前の大病院に運んでくれれば、娘は助かったのではないか」。そんな思いが、母の頭を行ったり来たりした。夫とともに精神科に通い、安定剤をのんだ。

 どん底にあった家族を救ってくれたのは、事故現場に供えられた花だった。

1 / 2

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

東北大病院100年の一覧を見る

最新記事