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原隆也記者のてんかん記

闘病記

突然の異動に頭が真っ白

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 12月下旬のある日、上司に声をかけられました。「現在の職場で勤務を続けてもらうのは難しいので、日勤(午前9時~午後5時)の職場へ2月に異動してもらう」とのことでした。突然のことで、頭が真っ白になり、「迷惑をかけているのだから仕方がない」と諦めのような気持ちで、うつむきながら説明を聞きました。「職種は記者のままだが、取材はしない」。どのような職場なのか想像もつかないまま、私の異動が決まりました。

 年末年始の休みに帰省し、てんかんと診断されたことや異動について、母に報告しました。母は「身内に(てんかんの患者は)いないのに」「そういう体に(私を)産んでしまった自分が悪い」と責めました。てんかんになったことで母親まで悲しませていると思うと、一層気分が重くなりました。

 1月下旬、私の送別会を部署の上司や同僚が開いてくれました。「ハートが熱い記者だ」。横浜支局時代でお世話になり、この部署でも一緒になった上司から、支局時代のエピソードを交えて、そんな送別の言葉をいただきました。

 入社から10年を前にした横浜支局では、仕事に行き詰まりを感じていました。そんな時、後輩のS君から「取材してみてください」と1本のメールが寄せられました。内容は特ダネにつながるものでした(私たちの間では「端緒」と呼んでいます)。

 S君は20歳代半ばと若手ながら非常に優秀な記者でした。しかし、この時、肺がんを患い自宅療養中でした。「闘病中の彼に代わって記事にして世に問おう」と取材に着手しました。支局にはほかにも同僚の記者がいる中で、半ば腐っていた私を信頼してくれたことがうれしくもありました。2か月半かけて各方面に取材し、社会面のトップを飾ることができました。後日、S君の自宅を訪れ、取材経過と掲載を報告し、2人で喜び合いました。S君のおかげで、良い仕事ができたと思っています。

 送別会の続きになります。別の上司は、私の署名記事の本数をデータベースで調べたうえで、「これだけの数を書いたことは誇っていい」と声をかけてくれました。

 また、別の上司からは、個別の飲みに誘ってもらいました。後日、サラリーマンの聖地・新橋の居酒屋で、「俺もそうだけど、年をとってくると人間どこかしら体にガタが出てくる。それとどう折り合っていくかだよな」という温かい励まし?をもらいました。

 この部署での在席期間はたった1年5か月でしたが、仕事ぶりを見ていてもらえたんだ、と感謝すると同時に、勤務内容は厳しかったけれども名残惜しさを感じました。

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原隆也(はら・りゅうや)
1974年、長野県出身。南アルプスと中央アルプスに囲まれた自然豊かな環境で育つ。1998年、読売新聞入社。千葉、金沢、横浜支局などを経て2014年9月から医療部。臓器移植や感染症、生活習慣病などを担当している。趣味は水泳、シュノーケリング。

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