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在宅医療に取り組む緩和ケア医・新城拓也さん

編集長インタビュー

新城拓也さん(3)看取りの現場から、「尊厳死」こう考える

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在宅医療に取り組む緩和ケア医・新城拓也さん

「医者が諦めたら、患者の生きる時間も止まるといつも思っています」と語る新城拓也さん

 新城さんは、これまで病院のホスピスや在宅医療で2000人以上の患者を看取みとってきた。中には、意思表示ができない最終段階になった時の医療処置について、あらかじめ自分の希望を伝える「事前指示書」や「リビング・ウィル」を用意している人もいたが、それはごく少数。多くは、診療時の本人との対話の中で、そして家族との話し合いの中で、どうするかを決めてきた。

 つい最近も、退院してから意識がなくなった患者に対し、本人の意向はわからなかったが、家族と話し合って、おなかに開けた小さな穴から栄養を送り込む「胃ろう」を造った。

 「何も特別な決断ではなく、その瞬間の最適な治療を選ぶという通常診療の一環として、僕は、可能なら、患者、家族と周囲の医療者の意見を聞きながらみんなで決めています。これで終わりにしようという話になったら、そのまま見送ったかもしれませんが、ご家族はまだ亡くならせるよりも、十分に手を尽くしたいという希望をもっていることが話し合いでわかったので、胃ろうになりました。今も意識はぼんやりしていますが、娘さん手作りのご飯も少し食べたり、笑顔を交わしたりする時間も持ちながら、ご自宅で暮らしています」

 本人の意向がわからない場合、終末期の医療選択は、医学的に妥当かどうかはもちろんだが、残される家族の心のケアという側面がとても大きくなってくると、新城さんは指摘する。

 「本人の意向が最大限反映されるのはとても大事なことです。でも、特にご家族、そして医師である自分も、患者さんといったん関わりができたならば、患者さんの命は患者さんだけの持ちものではないですね。終末期では、家族の意見は、ご本人とほぼ同列になってきます。命をすべて自分でコントロールできるという人間観は、人が人との関わりの中で生きている以上、ちょっと異常ではないかなと思っています」

 「尊厳死を巡る議論や、安楽死を選んだアメリカのメイナードさんの件など終末期医療では様々な話題がありますが、すべては自分の命を自分でコントロールしたいという気持ちの強まりが背景にある。患者さんが意識のある時にも、家族との間で食い違いがあったら、『自分の命は自分だけじゃ決められんと思うけどなあ』と伝えて、話し合ってもらいます」

 終末期の医療選択については、家族で意見が食い違う場合、家族だけで決めてもらうことは難しい。一緒に話し合いに入り、異なる意見をまとめていくのも、緩和ケア医の大事な役割だと思っている。

 「第三者である自分も中に入って、患者さんと家族の対話を刺激したり、自分も主治医としての意見を言いながら、それぞれの考えを引き出していかないと、突っ込んだ対話はできないのですよ。『家族の問題ですから、みんなでよく話し合って決めといてくださいね。それは医師の扱う問題ではありませんよ』と突き放すのは、手抜きだと思います。家族の中での意見の不一致をそのままにしておくと、いいゴールは得られません。これをまとめないと患者さんは安心して向こうに逝けないと思っていますから、自分の仕事として一手間かける。でも、きちんと話し合えば、必ず、落としどころというか、ああ、こうすればよいというのが、みんなの心の中で見えてきます」

 患者自身だけでなく、家族、そして医師である自身の意見も、患者の最期の医療選択に反映させていく。その考えの基礎になるのは、患者、家族と医師の信頼関係だ。

 「僕のように、患者さんが途中でよその病院に入ったとしても、亡くなるまで付き合っていこうというスタンスで仕事をするかどうかなんです。僕は今でも長期間の遠出はできませんし、プライベートや家族を犠牲にしているところはある。そうやって自分の時間をささげて患者を最期まで診ようとする医師との信頼関係の中で、それぞれが個人的に終末期に関する約束をしていけばいい。本人の意向は最大限反映されるべきですが、患者さん自身も、病状が変わっていけば、どんどん考え方が変わるから、書面で意思表示をしておくことには限界があるんです」

 「尊厳死法」を作り、法で尊厳死を規定することについては、原則、反対している。医師が終末期と判断できると言い切るには、科学的根拠が乏しいと考えているからだ。

 現在日本で議論されている法の原案は、「回復の可能性がなく、かつ、死期が間近」であると、経験や知識のある2人以上の医師が判断した場合、延命医療を中止したり、差し控えたりできるという内容だ。

 「ある程度、科学的知見が集まっているがんであっても、余命を判断するのはとても難しいですし、がん以外での病気ではさらに経過に個人差があります。個々の医師の先入観に判断が左右される可能性が高く、非常に危険です」

 現時点ではまだ、医師による終末期の判定、すなわち予後の予測は占いの域を出ないというのが自分の臨床経験からの実感です。もしも、目の前の患者に対して、「終末期である」という診断を臨床医が下せるとしたら、命の線引き、もうこの人は死んだと同然だ、生きている価値はないだろうという、一方的で個人的な価値観から判断しているに過ぎません。(中略)目の前の患者が終末期であるという、精度の高い、どこでも実施可能で、再現性のある診断技術が確立されないまま、この法案が適用されるのには、僕は反対です。(ブログ「Dr.Takuyaの心の映像」より)

 こう明確に考えを表しながら、「必要悪として、尊厳死法が必要になる可能性がある」とも指摘する。新城さんが看取りをするうえで一番大事にしている医師と患者、家族の信頼をベースとした結びつきが、現在の医療システムでは最期まで保てないという問題があるからだ。

 「今は、医師が最期まで自分の患者に責任を持つという働き方をしていないから、患者と医師との関係がものすごく不連続になっています。それまで在宅で診ていたとしても、救急で知らない病院に運ばれてしまったらそこで関係が断たれますし、同じ病院内でも昼間と夜間で診ている医師や看護師が違うことなんて、ざらにあります。そうなると、患者さんがどれだけ事前に自分の希望を伝えていても、運ばれる病院によっては、または診る医師によっては、その意向が生かされない可能性があります。医師や病院の方でも、その患者さんや家族と培ってきた信頼関係がなければ、医療行為の責任が問われる可能性がありますから、客観的なルールや文書を作る必要が出てきてしまう。病院側は訴訟を嫌いますから、書面にしておいてくれ、その指示に従って動きますよというある意味、免責の意向が強くなりますよね。こういう医療システムの不備から、尊厳死法が必要になるという議論が起きていることを、医療者はもっと自覚すべきでしょう」

 また、数多くの終末期を診てきた経験から、終末期の医療選択を巡る議論では、一つ大事な事実が見過ごされていると思ってきた。

 「化学療法をやめる、やめないという議論でも、胃ろうを造るかどうかという議論でも、どちらを選択しても、どちらにも苦労があるんです。苦労の種類が違うだけで、背負う苦労の量は一緒なのではないかと思います。化学療法をやめたからといって、やめない人よりいいQOL(生活の質)で暮らしていけるかというと、そうは言い切れない。尊厳死するにしても、しないにしても、どちらも後悔は残るんです。治療を受ける、受けないは、それぞれ意向があっても、終末期医療のようなぎりぎりの状態になった時は、益も害も両方持ち合わせているもので、どちらの道も僕はどこかで大差ないと思っているんです」

 最新の著書『患者から「早く死なせてほしい」と言われたらどうしますか?』では、「食事ができなくなった患者の家族から『点滴をしてほしい』と頼まれました。本当はどのように対応したらよいのか迷っています」という問いを立てた章がある。

 国内で行われた最近の研究に基づけば、「末期がん患者にとって、点滴は益にも害にもならない」という科学的な事実がある。だが、多くの患者や家族、そして医療者さえも「点滴は効く」という「点滴教」を信じる中で、「医学的に意味はないのだから、必要なし」と断じるわけにはいかないと新城さんは言う。

 誰にも訪れる病気のために食べられなくなる時期に、点滴をしないで放置されるのは、いわば、十分なケアができていないという家族、医療者の自責感を強めるのです。「点滴教」の根源はもしかしたら、ケアとは何かという根源と同じなのかもしれません。そうであるなら、点滴を単なる医療行為と考えるのではなく、もっと多面的に考えていく必要があるのだと思います。(『患者から「早く死なせてほしい」と言われたらどうしますか?』より)

 「医師も、おれは点滴しない派とか、おれは点滴する派とか、一つの思想に固執すると楽なんですよ。緩和ケアするんだったら化学療法は受けさせないぞとか、そういう思想を身に付けると、個々の患者や家族の希望を目の前にしても、考えなくて済むから楽なんです。でも、医療は、常に迷って、不確実な経過と向き合って、絶えず不安な仕事でしょう。そんな不確実性と向き合う時に、不快感を取り除く一番いい方法は、一つの思想に居着いてしまうことです。自分の考えがすごくクリアになったような錯覚に陥りますが、それは患者のための医療ではない。医師として、職業人としての成長が止まっていますから、そうなったら引退した方がいい」

 科学的根拠は重視しながらも、それに固執しない。患者や家族、そして医療者の戸惑いまで、すべて丁寧にくみ取って、信頼関係の中で作り上げていく看取りの医療。だが、さらにもう一歩、踏み込んだ新城さん自身の死生観、医療観を感じさせる文章が、個人ブログ「Dr.Takuyaの心の映像」に掲載されている。

 雑誌の懸賞論文に応募したが、掲載が却下された「植物園の人々」と名付けられたエッセー風の文章だ。「浮き輪の、空気を入れるところみたいだな」と、医師となって初めて胃ろうを見た時に感じた言葉から始まる。医師に成り立てで、脳外科医として働き始めた若き日の新城さんが、脳にダメージを受け、胃ろうをつけて植物状態となった患者の病室を「植物園みたいだ」と思いながら診察した経験と、そこから考えた終末医療観を語る。

 かつての「植物園」には、美しい花を咲かせることはなくとも、静かに穏やかに何も求めず不平も言わず、ただひたすら生き続ける患者がいた。そんな患者を見守り続ける家族と、小さな善行を積み重ねる医療者がいた。たとえいつかは枯れてしまうと分かっている植物でも、一枚でも葉が残っていれば、そこにわずかでも命があれば、大切に見つめ続けるまなざしがあった。枯れゆく植物をでながら、言葉にならない思いを伝えようとする対話があった。

 しかし今では、花が散り、盛りが過ぎれば、その葉が茎が生を蓄えていても、根ごと引っこ抜き捨ててしまう。花が散った後の植物には既に価値がないと言わんばかりに。あの人のように働くことも出来ず、自分の力で生きていくことも出来ない、意識がなく、寝たきりになった胃ろうをつけた患者には、生きる価値がないと考える風潮が静かに広まっている。しかし、命の価値は、盛りを過ぎても失われることはない。(中略)

 問題の本質は、今の社会にひろがる、価値のある命と価値のない命を選別し、価値のない命は消滅した方がよいという、偏狭な思想の台頭にあるのではないかと思っている。(ブログ「Dr.Takuyaの心の映像」より)

 「これはやっぱり、(障害を持つ)自分の子供のことが影響しているんですよね。障害を持って生きていくということがそこまで不幸だと思っていないんです。だから、胃ろうをつけて生きていくことも不幸だと、あまり思わない。尊厳死法の議論になるといつもそこに流れているのは、『生きている価値がない状態になったら、死を選びたい』という発想なのですよね。その優性思想のようなものと、自分の信念が相いれないのだと思います。生きている価値のある命というものを、周りが規定していく状況に、自分自身がとても耐えられないのです」

 新城さんは、終末期に胃ろうや点滴を望まないと患者や家族が希望すれば、その願いをかなえるようにし、自分の死生観を押しつけることはしない。だが、超高齢社会となり、多死社会を迎えつつある日本で、しばしば医療費抑制の必要性と関連づけられて、尊厳死の導入を求める声が大きくなっていることには、違和感を覚えている。

 「私は医者ですから、死ぬ手伝いをする前に、まず考えるのは『生きろ』ということです。また、医者が諦めたら、患者の生きる時間も止まるといつも思っています。それが患者の残された力の最大化、つまり緩和ケアということです。『もうこんなものだろう』と見切りをつける覚悟も時には必要ですが、それは患者自身の力が残されていないという別の勘が働いた時です。手間暇をかけて、一人一人の患者に向き合って緩和ケアをやっている立場からすると、それが不十分な状態で尊厳死だけ導入しようとするのは、終末期医療の発展を阻害すると思います。まず先に、緩和ケアの周知、教育の方が必要ではないでしょうか」

(続く)

【略歴】新城拓也(しんじょう・たくや) しんじょう医院院長
 1971年、広島市生まれ。名古屋市育ち。1996年、名古屋市大医学部卒。社会保険神戸中央病院(現・JCHO神戸中央病院)緩和ケア病棟(ホスピス)で10年間勤務した後、2012年8月、緩和ケア専門の在宅診療クリニック「しんじょう医院」を開業。日本緩和医療学会理事、同学会誌編集長。共編著に『エビデンスで解決!緩和医療ケースファイル』(南江堂)、『3ステップ実践緩和ケア』(青海社)、単著に『患者から「早く死なせてほしい」と言われたらどうしますか?―本当に聞きたかった緩和ケアの講義』(金原出版)など著書多数。

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岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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1件 のコメント

はじめて、しっくりしました。

esperanza

はじめて新城先生の記事を拝見しました。終末期をめぐっては、多様な意見がありますが、自己決定尊重論も費用対効果論などいずれも突破できる何かを見つけ...

はじめて新城先生の記事を拝見しました。

終末期をめぐっては、多様な意見がありますが、自己決定尊重論も費用対効果論などいずれも
突破できる何かを見つけることができませんでした。

しかしながら、新城先生のこの記事を読み、はじめてしっくりできるご意見を拝聴した思いです。

法によって一定の線引きにお墨付きを付与すれば、現場は迷うことから解放され、楽になるかも知れません。しかし、日々の変化に向き合い、最期まで付き合う覚悟の下、先生のような医師が増えることを期待します。

また、そのような医療を提供しうる医療制度であることを国民として要望していく必要性を実感しています。

ありがとうございました。

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