文字サイズ:
  • 標準
  • 拡大

在宅医療に取り組む緩和ケア医・新城拓也さん

編集長インタビュー

新城拓也さん(2)緩和ケア医を志すきっかけになった長男の病気

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

在宅医療に取り組む緩和ケア医・新城拓也さん

緩和ケア医を志すきっかけや思いについて話す新城拓也さん

 1996年に医師免許を取り、最初の1年半は脳外科、次いで内科で医師修業を積んでいた新城さんが、緩和ケアを志すようになったのは、長男の病気がきっかけだった。

 97年に結婚。出身大学の医局人事で三重県の小さな病院に赴任して間もなく、長男を授かり、27歳で父親になった。髪の毛がまったく生えていない赤ちゃんだったが、それさえもかわいく、いとおしかった。

 自分たちとは縁もゆかりもない土地で、若い夫婦が手探りで始めた慣れない子育て。母乳やミルクをなかなかうまく飲めず、よく鼻が詰まるのが心配だったが、「子供って皆、こんなものなのだろう」と毎日、夢中で向き合っていた。

 生後数か月ほどたったある日、妻子が車で移動中、息子がけいれんを起こし、救急車で運ばれた。仕事中に病院に駆けつけた新城さんが告げられたのは、医師の自分も聞いたことがない先天性の病気の名前。知的障害はないが、髪や皮膚、歯、目などを作るもととなる組織に異常があり、成長とともに、頭髪や歯の生え方、皮膚や粘膜などに様々な症状が表れる病気だった。

 「生まれてから、何か月もたつのに、医者である自分が気付けなかったことがショックでした。何でもっと早く見つけてあげられなかったんだって、自分を責めましたよね。早くわかったからといって、育て方はそんなに変わらなかったのかもしれないし、結果は変わらないのかもしれない。医者はそう発想しがちだということにも、それは今、苦しみに直面している当事者の気持ちに対する想像力の貧困であるからにほかならないということにも、初めて気付きました。今、僕が診ているがんの患者さんも、『毎年検診を受けていれば、もっと早く見つけられていれば、結果が違っていたかもしれない』って後悔の言葉を言います。過去に対する後悔は、今得られる結果の問題ではないんです。やっぱり、こういう気持ちになってしまうんだと、当事者になって初めて気付かされました。」

 治療に当たった小児科の医師は、新城さんが医師ということで、難しい専門用語を使いながら、病気のあらまし、遺伝形式、日本での推定患者数など、教科書に書いてあるような知識をすべて説明していった。入院を担当した若い小児科医の方は、伏し目がちで、大変なことが起きてしまったというような深刻な表情。そんな医師たちと向き合いながら、新城さんは、自分がどんどん絶望的な気持ちに落ちこんでいくのを感じていた。

 「もちろん、内容は理解できますよ。でも、その時、親として自分が得たかったのは、病気についての詳しい知識や科学的な知見ではなかった。これからこの子を育てていくにはどうしたらいいか、親としてこういう子を育てる時の心構えを知りたかったんです。医師は、この病気を治せないし、病気をなかったことにもできない。同じ子供を育てたことはないのだから、説明に窮したのでしょう。でも、子供の先天異常に立ち会ってしまった親に対し、知識で黙らせるのではなく、もっと明るい感じで、聡明に、役立つことを一緒に考えてくれるような専門家でいてほしかった」

 一方で、その小児科医は、誠心誠意、治療に当たってくれ、「同じ病気を持つ患者の親御さんに会ってみますか?」と持ちかけてくれた。

 その小児科医に「もし、自分の子供と同じ状況の方がいたら、紹介してあげてほしい」と協力を申し出ていたというその家族に、後日、会えた。同じ病気を抱えながらも、その子が大きく成長している姿にほっとすると同時に、まばらに生えた髪の毛など、普通の子供と明らかに違う見た目に正直、落ち込みもした。それでも、毎日行ったほうがいい体のケアの方法や、ものの飲み込ませ方などを教えてもらい、自分や妻の気持ちが徐々に落ち着いていくのを感じた。

 「親として具体的になすべきことがわかって、救われましたよね。医師は、いい助言は何もしてくれなかったし、気の利いたことも言わなかったかもしれませんが、患者や家族に有益な情報を伝えたり、橋渡ししてくれたりして、患者や家族はそれで救われるんだと思いました。優しく慰めて、『つらいですよね』って肩を抱いて共感するのが医師の仕事じゃない。実際に役立つことを、明るく、伝えることが大事なんだと気付かされました」

 「治らない病気がある」という医療の限界。そして、医学的な知識を一方的に伝授するだけでは、患者や家族を支えられないということに、息子の病気を通じて、初めて意識的になった。すると、これまでの、自分の医師としての働きぶりが、急に色あせて見えてきた。

 「その頃は、田舎の病院の内科で働いていたので、糖尿病や高血圧などの生活習慣病から、アルコール依存症、不安神経症まで何でも診ていたのですが、知識をもって患者を教育することが医師の役目だと思っていたんですね。知識を伝えれば、患者は自ら強くなって、自分の病気を自分自身の力で乗り越えていくと考えていました。糖尿病の人なら、検査数値がいくつぐらいになると目が悪くなるから、頑張ってこれぐらいにしましょうと教育すれば、患者は生活の質を高くしていくのだ、病気があってもより良く暮らしていく方法を得ることができると思っていた。でも、そんなものでは足りないと思い始めました」

 そこから、自分の診療を見直し、すべてやり方を変えていった。治らない病気を抱える患者や家族にどう向き合い、どう説明するのか。その病気が降りかかり、一変する生活を、医療者はどう支えたらいいのか。片っ端から本を読みあさり、自分の問題意識に答えてくれたのは、がんや緩和ケアについて書かれた本だった。

 「緩和ケアの世界では、『全人的医療』という言い方をしますけれども、患者の病気を診るのではなくて、病気を持ったその人の様々な側面から、その人全体を診るという医療です。家族もその人の一部だから、家族も診ようと書いてあった緩和ケアの本に、新たな境地を見た気分でした。『これだ』と、まさに我が意を得たのです」

 内科医として働く総合病院で、たった一人、試行錯誤しながら緩和ケアを始めた。終末期の患者を、「僕に診させて下さい」とほかの科の医師から引き受け、最後は自宅で過ごしたいという患者に対して、往診や在宅での看取みとりも始めた。

 「苦痛をある程度取ることはできても、亡くなっていくことを変えることはできない。それまでは、これだけ一生懸命やっても、患者さんに反応はないということをわかってもらうために、病状や検査結果、治療など自分のやっていることを伝えて、家族と向き合ったつもりになっていたのですが、緩和ケアの考え方を学ぶと、亡くなっていくことを家族と共有するようになっていきましたね。患者さんが亡くなることは残念ですが、最後まで食事を楽しむための料理の工夫とか、トイレの介助の仕方とか、こういう接し方をする方がいいとか具体的な看病の助言をするようになる。それまでは、患者さんが治らない病気で亡くなっても、『力及ばず、申し訳ございません』と本心から思っていました。でも、患者さんが、治らないこと、亡くなるということを家族と共有すると、最後まで生きていくことを支えられるし、家族も、やれることはやったと、充実感さえ覚えるようになる。お互いよく頑張ったねとねぎらい合えるようになったんです」

 プライベートでは、体温調節ができない息子のために、エアコンのある幼稚園を探し、2002年4月、そんな環境が整っている神戸市に移り住むため、社会保険神戸中央病院に移った。障害は変えられない。病気をなかったことにはできないが、そのままで生きやすくするために環境は変えられる。出身大学の医局人事から離れて、自分の足で人生を踏み出す覚悟の一歩だった。

 親としてどう生きるかも妻と話し合った。

 「めそめそするのはやめよう」「子供の障害を引け目に思って生きるのはやめよう」「子供を言い訳にしたり、見た目も疲れ果てたようにならないように、明るく、かっこよくいよう」。そんなことを真剣に話し合った。次男、三男を産む時も、「同じ障害を持っていたらどうしよう」という恐れについてさんざん考えたが、「きっと家族は多い方がいい。この子を助けてくれるのはきっと次の子たちだ。次の子がそうでも同じように育てればいい」と夫婦で心を決めた。

 そして10年間、ホスピスで働いて、その後、在宅医療を行うために開業して、今の自分がある。妻はいつも、長男の病気について、「あなたの仕事の仕方とは関係ないじゃないの」と言うが、やはり子供のことがなかったら、間違いなく、この道は歩めなかったと思う。

 「昔は、治らない病気や障害を持った人は、ああいうこともできない、こういうこともできない、とかわいそうな気持ちになっていたんですが、長男の姿を見ていると、生まれた時からそうだから、不自由はあっても、周りが思うほど我が身を嘆くということはないのかもしれないと感じるのです。僕が今診ている患者さんたちも、治らない病気を持って、すべて不自由、不幸せと思っているわけじゃないとわかるようになった。病気して、衰弱して、亡くなっていくことは大変なことだけど、かわいそう、不幸とは思わなくなりました」

 緩和ケアでは、「家族は第2の患者」であり、ケアの重要な対象だ。自身の患者家族としての経験も、今の診療に大きく影響を与えているが、もう一つ、忘れられない経験がある。医師になり立ての1年目、脳外科医を目指して、出身大の大学病院から派遣された海辺の病院で働いていた時のことだ。

 小学校に入学する直前の6歳の男の子が、交通事故に遭って運ばれてきた。頭を強く打ち、手術もできず、手の施しようのない状態だった。医師としてできることは、血液ガスの分析や尿量の確認、血圧や脈拍数などのチェック、人工呼吸器や輸液の調整だけ。病室で付き添う両親は、自分が処置に入る度に、すがるような顔で見つめていたが、検査結果を伝えることぐらいしかできなかった。

 一度、母親が、「道の向こう側にいる息子を呼んで、こっちだよと手を振ったら、喜んで走ってきてひかれてしまった」と目の前で話して号泣した時も、どう声をかけたらいいかわからなかった。1週間が過ぎて、男の子は亡くなった。心臓マッサージを懸命にしたが、それが意味がないことは自分が一番よくわかっていた。

 「ご家族と向き合えなかったですね。向き合う勇気がなかったし、ひたすら泊まり込んで、意味があるのかないのかわからない検査だけに汗をかいて、子供だけを診ていました。家族に話しかけることはほとんどできなかった。でも、もしあそこで『どんなお子さんなんですか』とか、『お子さんのことつらいですね』と家族に話しかけていたら、医師としてまだ働ける場所があったはずなんです。亡くなっていく人を淡々と診るだけでは、医師として働ける場所はなくなっていく。そんな態度では、終末期の患者さんを診る今もきついと思うんです。どうしてあの時、あの小さな手を握りながら、両親にその小さな手をさすることを提案しなかったのか。その心残りは、今、亡くなっていく患者さんを診る時でも、医師として最後までできることがあるんだという意識につながっています」

 さらに遡れば、父親が開業医だった新城さんは、高校2年生まで特に自分の将来を考えることもなく、医師になるつもりはなかった。進路に迷い、悩み続けて学校にも通えなくなっていたころ、心を病んだ友達の付き添いで行った心療内科医が薬を処方せず、ただ話を聞いてくれるだけで、気持ちが上向いていくのに驚いた。

 「すぐに薬を出すだけじゃなくて、話を聞く医者もいるんだとびっくりしましたね。気に留まった本とか言葉を報告して、それについて話し合うだけなんですよ。それだけで、じゃあ次回と終わるのに、何だか調子が良くなっていく。カウンセリングの一種だったのでしょうけれども、不思議な気分でしたね。その先生の仕事ぶりを見ているうちに憧れて、医師になりたいと初めて思い、そこから必死に勉強しました。自分で見つけた大人に正しく憧れて、道が開けたんですよね」

 かつて看取った終末期の患者に、「すべて、つながっているのよ」と言われたことがある。他者との出会い、診療での後悔、家族の病気――。時には過酷な形で降りかかってきた出来事が医師としての成長を促し、自身を今の診療に導いてきた。

(続く)

【略歴】新城拓也(しんじょう・たくや) しんじょう医院院長
 1971年、広島市生まれ。名古屋市育ち。1996年、名古屋市大医学部卒。社会保険神戸中央病院(現・JCHO神戸中央病院)緩和ケア病棟(ホスピス)で10年間勤務した後、2012年8月、緩和ケア専門の在宅診療クリニック「しんじょう医院」を開業。日本緩和医療学会理事、同学会誌編集長。共編著に『エビデンスで解決!緩和医療ケースファイル』(南江堂)、『3ステップ実践緩和ケア』(青海社)、単著に『患者から「早く死なせてほしい」と言われたらどうしますか?―本当に聞きたかった緩和ケアの講義』(金原出版)など著書多数。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

編集長インタビュー201505岩永_顔120px

岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

編集長インタビューの一覧を見る

3件 のコメント

緩和医が増えて欲しい

ちえ

緩和ケア病棟で働く看護師です。偶然、先生の記事を読みました。心から患者、家族に向き合っておられることが伝わってきて、涙が出そうです。急性期の病院...

緩和ケア病棟で働く看護師です。
偶然、先生の記事を読みました。心から患者、家族に向き合っておられることが伝わってきて、涙が出そうです。
急性期の病院を早々と退院させられ、受け入れも出来ていないまま緩和を紹介されてこられるケースが珍しくなく、入院後から心のケアが求められますが
それに応じられる緩和ケア医はまだまだ少ないです。ちなみに私の病院には緩和ケア医はいません。
先生が主治医の患者、家族の方々はきっと大切な時間を有意義に過ごしていらっしゃるでしょうね。

つづきを読む

違反報告

衝撃を受けました

おれんじ

1991年に日本の医大を卒業し、現在アメリカで開業医をしています。日本の医学教育/研修に失望してアメリカに渡りました。しかし、アメリカでも医療の...

1991年に日本の医大を卒業し、現在アメリカで開業医をしています。日本の医学教育/研修に失望してアメリカに渡りました。しかし、アメリカでも医療の方向性は日本と同じで、緩和医療についてはあまりシステマティックな教育があるわけではありませんでした。今回、新城拓也先生の記事を読んで、非常に感銘を受けました。人に向き合う医療とはまさにこうあるべきだと思います。医療と医学は異なります。日本もアメリカも学問としての医学に重点が置かれ過ぎています。もともと私は、医学部が理系学部だということに非常な違和感を感じていました。数学、化学、物理などを学んで医者になることにはそれなりの理屈があるのでしょうが、町の開業医になってみれば、中学生レベルの四則演算ができればそれで以上の理系知識はいりません。全人的な医療をやるには、包括的な教養が必要で、文系の教養、人とのコミュニケーション能力、社会人としての常識などの方が、患者と向き合う上で、はるかに大切です。残念ながら、今の医学部教育はそのようにはなっていません。新城先生のような方が、個人のご努力で孤軍奮闘されているというのが現実です。アメリカでは最近、コンセルジュ医療を行う開業医が増えてきました。コンセルジュというのは、会員制のクリニックです。患者さんは、年会費10−20万円を支払話なければなりませんが、予約は自分の希望通りにいつでも取ることができますし、時間も原則的には制限されません。こういう近年の動きは、保険の制約なしにもう少し時間をとって患者の話を聞いてやりたいという医者自身の思いの結果です。お金のためではありません。残念ながら、「患者に寄り添う医療」には保険からの支払いはありませんので、コンセルジュのような形になってしまうわけです。アメリカも試行錯誤ですが、新城先生のような方の努力が正当に評価されるような医療システムを作る必要性を強く感じます。

つづきを読む

違反報告

素晴らしい先生ですね

ひとりもの

この先生の本、読みたくなりました。お子さんも、おとうさんの仕事を誇りに思うでしょう。最後まで生きることを支えるという姿勢に感動しました

この先生の本、読みたくなりました。お子さんも、おとうさんの仕事を誇りに思うでしょう。最後まで生きることを支えるという姿勢に感動しました

違反報告

すべてのコメントを読む

在宅医療に取り組む緩和ケア医・新城拓也さん

最新記事