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ケアノート

医療・健康・介護のコラム

[諸田玲子さん]良いホーム巡り合えた…認知症の母と珠玉の時間

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「母を大切にしてもらい、本当に良いホームでした。通わなくなった今、私が『ホームシック』になっています」(東京都内で)=橘薫撮影

 歴史・時代小説で知られる作家の諸田玲子さん(61)は昨年、母のきね子さんを看取みとりました。90歳、老衰でした。

 認知症のきね子さんを静岡市の実家から呼び寄せ、東京の介護付き有料老人ホームに入居させる選択をした諸田さん。通い続けた3年間を振り返り、「ホームにはホームの良さがありました」と振り返ります。

高熱の後に異変

 

 父の病死から10年以上、母は実家に一人暮らしでした。地元で俳句や詩吟を楽しみ、東京の私の家にも毎月のように遊びに来ていたので、「まだ大丈夫」と思っていました。それが突然、原因不明の高熱を出しました。2011年1月のことです。

 熱はすぐ下がりましたが、それを境に母は人が変わってしまいました。突然怒ったり、不機嫌にふて寝したり――。大阪に住む兄と交代で半月ずつ実家に通いましたが、泊まりに行くとイライラと文句ばかり。眠らせてもらえません。

 後でわかったのですが、認知症でした。認知症にもタイプがあって、母の場合は記憶は良くて、ただ感情の起伏が激しくなる症状が表れていたのです。もっと早く気づいてあげられていたら……。

 私は幼い頃から、母がいなかったら死んでしまうと思うぐらいの母親っ子でした。その母が認知症だという事実から目をそらしたかったのかもしれません。

 ずっと静岡で過ごすのがきね子さんの希望だった。だが、県内で介護付きのホームを探すと、どこも実家から離れた場所ばかり。諸田さんはきね子さんを東京に呼ぶ決心をした。吟味を重ねて自宅近くのホームを選び、11年6月に入居させた。週3~4日のホーム通いが始まった。

 東京に呼んだのは、一緒に住めなくてもできる限り母のそばにいたかったから。兄にも家族があって、あのまま通い続けるのは無理でした。

ホームで諸田さん(右)と大好きな歌を歌うきね子さん(2013年6月撮影)

 時々不機嫌になることを除くと、最初の1年はほぼ健康でした。母は「何でここにいなきゃなんないの」と不満を漏らしながらも、ホームの仲間と出かけたり、歌を歌ったりしていました。私の家を訪ねて来たこともありました。

 でも、12年夏の白内障手術の後、母はみるみる衰えました。9月にはホームで転んで頭を打ち、脳の手術をした後は歩けなくなりました。

 立ったり座ったりの介助やトイレ・食事の世話は、基本的にホームの方がします。私は少しでも手伝いたくて、母とトイレで何時間も一緒に歌ったり、一日中くっついて手足をさすったりしました。

 ホーム通いで、仕事の方は一時パニックになりました。2年目頃からは少しずつ仕事をセーブし、気持ちの切り替えもつくようになりました。

「親」に戻る瞬間

 

 きね子さんはほとんど声も出なくなった。13年頃からは流動食しか受け付けなくなり、その後は何度も危篤に陥る。つらかったのは、薬を飲ませるかどうか、延命措置をするかどうかなど、母親の命を左右する決定権が、自分に降ってきたことだったという。

 私も混乱しました。看護師さんに「早く薬を」と頼んだそばから、「薬のせいで母が苦しみだした」と文句を言うこともありました。何もかも裏目に出ているようで、精神的に追い込まれました。

 衰えていく母でしたが、娘を思う「母親」に戻る瞬間がありました。暗くなると「早く帰りなさい」と私を目で追い返すのです。「夜道は危険」って母親の本能が働くのでしょうね。14年4月12日もそうでした。

 夜7時頃、看護師さんが食事をさせている最中、「帰るね」って声をかけたら、母は私に自慢するような顔で、流動食を懸命にのみ込み始めたのです。安心して帰らせようとしたのでしょう。そして、のどを詰まらせ、そのまま亡くなりました。苦しんだのは一瞬だったと思います。

仕事と両立

 

 別れを覚悟していく過程に比べれば、亡くなった瞬間の衝撃は大きくなかったという諸田さん。夜中のうちに遺体を実家へ運んだ。亡くなったら一刻も早く帰してあげると決めていた。

 本当に良いホームに巡り合えたと思っています。寂しがりやの母は夜中も私に電話をしてきて、通じないこともあるのですが、看護師さんが私の物まねで相手をしてくれました。

 もし、私が一人で全部背負っていたら、母の衰弱を見守るつらさに追い詰められていたでしょう。基本的な世話をプロに任せたことで、仕事ができたのが救いでした。寝不足の中でも仕事に追われる必死な時間があったからこそ、苦しさを乗り越えられたと思っています。

 親を見送るのは悲劇ではなく、人間社会が持つ本来の形。ホームで看護師さんや多くのお年寄りと接した日々は、そんなことも考えさせてくれました。私は珠玉の時間を過ごせたと思っています。(聞き手・植松邦明)

 

 もろた・れいこ 1954年、静岡市生まれ。作家。「眩惑げんわく」でデビュー。2003年、短編集「の一日」で吉川英治文学新人賞。07年、「奸婦かんぷにあらず」で新田次郎文学賞。07~08年に読売新聞で「美女いくさ」を連載した。今年10月に新刊「帰蝶」(PHP研究所)を発売予定。

 

 ◎取材を終えて きね子さんは民生・児童委員を長年務め、本紙静岡版でも藍綬褒章を受章した際に紹介された。認知症による言動で地元での母親の晩節を汚さないことも、東京へ呼び寄せた理由だったという。ホームには相当の費用がかかったといい、誰もができる選択ではない。仕事と両立の道がほかになかった諸田さんは、家族として頻繁にホームを訪ね、衰えゆく親に寄り添った。現代における介護の一つのあり方を見た思いだ。

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