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『紋切型社会』で思考停止に陥った現代社会を斬るフリーライター、武田砂鉄さん

編集長インタビュー

武田砂鉄さん(2)神戸連続児童殺傷、元少年Aの「心の闇」

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『紋切型社会』で思考停止に陥った現代社会を斬るフリーライター、武田砂鉄さん

「同じ14歳だった2人に対する世間の反応への違和感が、自身のものの考え方に影響し続けている」と語る武田砂鉄さん。

 武田さんが「紋切り型」の表現に、はっきりと違和感を覚え始めたのは、14歳の時だった。1982年生まれの武田さんが思春期真っ盛りだった1997年は、阪神・淡路大震災に続き、神戸の連続児童殺傷事件、通称「酒鬼薔薇聖斗事件」が起きた年だ。

 「あの事件が起きる2年前の1995年は、1月に阪神・淡路大震災があり、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きました。小学校を卒業し中学校に入学するタイミングでしたが、漠然と、世の中全体がすさんでいく、あるいはぶっ壊れていくような、そんな感覚を持っていました。そして1997年に神戸の連続児童殺傷事件が起きます。犯人は、自分とまったく同い年の少年でした。先日刊行された元少年Aの手記『絶歌』を読むと、彼も1995年の空気感について言及しています。彼が選んだ、明らかに間違った振る舞いに共感などするはずもありませんが、やはりあの空気を感知していたのか、とは思いました」

 2人が死亡し、3人が重軽傷を負った連続殺傷事件。それが14歳の少年が起こした犯行だということがわかった時、マスコミや社会は一斉に、少年犯罪、当時の14歳について分析を始めた。同じ年齢だった武田さんは、新聞やテレビが連日、自分たちについて分析する言葉を浴びせられ、激しい憤りを感じていた。

 「当時のメディア報道にあふれていたいたずらな考察・指摘をいまだに恨みったらしく記憶しています。この世代はキレたら何をするかわからない、とにかく危ないキレる若者たちだ、とあちこちで繰り返されました。当初の予測に反し14歳の少年が犯人だったという動揺を、世代を丸ごと怖がることで解消しようとしていたのでしょうか。なぜ十把一からげにくくるようなことをするのかと怒り続けていましたね」

  犯人がわからない時は、車を運転する中年男性が怪しいといううわさも流れた。警察もマスコミも、まさか少年による犯罪とは考えていなかった時に、突如判明した、あまりにも想定外の事実だった。

 「理解できない不安を消化するために指差されている気持ち悪さを感じていました。その後起きた西鉄バスジャック事件や、秋葉原連続殺傷事件の犯人もまったく同じ年齢でした。昨年も、週刊誌で『1982年生まれに“メディア型犯罪”が多いのは偶然なのか?』といった記事が組まれましたし、この世代は度々、凶悪犯罪者の存在とともに語られてきたのです」

 わけのわからない事件が起きた時に、自分たちの世界とは関係ないイレギュラーな出来事だと決めつけ、わかりやすいストーリーにあてはめて、すぐに安心や安定を得ようとする社会心理。スケープゴートにされた世代として、そんな社会に対する強烈な反発心は、その後も武田さんの胸にずっと残り続けた。そして、何か大きな事件が起こる度に、今も、そんな紋切り型の反応が繰り返されている。

 「その時からメディアの手法は全く変わっていません。原因や責任を出来る限りわかりやすい形で押しつけ、自分たちとは別のところに置き、こちらは安全だと思い込ませる伝え方をします。一通り怖がってみるけれど、それは、自分とは違うということを確認し安堵あんどするために使われます。たとえば今年、川崎の中1男子殺害事件や大阪・寝屋川中1男女殺害事件が起きてしまいましたが、あろうことか、加害者ではなく、被害者の家庭環境を露悪的に取り扱い、親がしっかりしてないからこうなるのでは……と苦言を呈するケースが散見されました。自分の安堵のために、他者をとってもガサツに取り扱っている気がします」

 神戸連続殺傷事件の加害者である元少年は、今年6月、自身の体験を振り返った手記『絶歌』(太田出版)を出版した。同じ年齢の彼の起こした犯罪について「全く理解できない。なぜあのような残忍な手段を選んだのか」とずっと心に引っかかり続けていたという武田さん。手記を「極めて稚拙な内容で、自己陶酔も甚だしい」と批判しながらも、果たして彼と自分にどれほどの差異があったのだろうかという着眼で、自分の思春期を振り返りながら読んだという。

 「彼は、自分のことをかわいがってくれた祖母が死んだ直後に、祖母の愛用していた電気按摩あんま器を股間に押しつけ、初めて射精という行為を知ります。彼はこう書いています。『僕のなかで、〝性〟と〝死〟が〝罪悪感〟という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった』。この頃から空き瓶にナメクジを集め始めます。理解しがたい行為です。しかし、性の知識に乏しい頃というのは、あふれんばかりの欲情を抱えながら、極めて不正確な知識や情報をたどっていくものです。どんなことと接続されてしまってもおかしくはない。ナメクジを殺し、小動物を殺し、最終的には人を殺すところまでつながっていった彼を理解するはずもないですが、〝性〟や〝死〟が自分の周囲に危うく漂い始めた時期に、何らかの作用によって、とんでもない接続がなされてしまう可能性は、誰にでもあったのかもしれません。重ねて言いますが、だからといって彼に理解を示すわけではありません」

 インタビュー後、武田さんと、この連載2回目の原稿についてやり取りしていた9月10日、週刊文春や週刊新潮などで、元少年Aが新たに寄せた手紙についての報道があった。『絶歌』の出版経緯を巡り、仲介した出版社社長への批判と憎悪が示された内容で、ナメクジと絡む異様な半裸のセルフポートレートを載せたHPを彼が開設したことにも触れられていた。そこには贖罪しょくざいの思いは見えず、ただ自己顕示欲だけがあふれており、彼の起こした新たな行動に違和感を覚えた記者は、改めて、武田さんに連絡し、この手紙についても、追加で考えを聞いた。

 「『絶歌』は刊行に至る経緯が不透明でしたし、刊行後も彼は口を閉ざしたままでしたから、唐突に出版された本の中身から、彼の思いを推察する他ありませんでした。贖罪というのは数値化できるものではありません。だからといってこの時点で、方々で叫ばれた『ちっとも反省していない!』にいたずらに乗っかることもできませんでした。とても軽薄な本でしたが、その本の存在を軽薄に処理してしまう世間の態度にも違和感を覚えました。改めて記された今回の手紙を読んで感じたことは、『絶歌』を読み終わったときに自分が覚えた感覚と変わっていません。実は刊行直後からこう思ってたんです、と今から言い直すのはフェアではない気もするので、自分が刊行直後に雑誌に記した記事から引用することにします。このように書きました」

 『絶歌』には、親との距離感や、自分を見捨てずにいてくれた観察官や仕事場の先輩への一定の感謝など、「こう書けば読み手の心象をつかむことができるのではないか」という働きかけを感じる箇所が散見される。繰り返すようにその筆致はおおよそ稚拙だが、「反省してない!」というこちらの反応を見越した上で記したのではないかと思わせる冷静さがある。(『週刊金曜日』7月3日号)

 「とにかく冷静なんです。今回、数社の週刊誌に送られた彼の手紙は、『絶歌』刊行後のメディアや世間の反応を見た上で書かれています。ホームページを開設し、ナメクジにまたがる写真などを載せている。その写真やアート作品らしき画像を見ると、あまりのおぞましさにたじろぎます。しかしそのことよりも、手紙の中で、当初刊行してくれる予定だった版元の社長に向けて恨み節を続け、『自らの言葉で奪い返さないことには、私は前にも後ろにも横にも斜めにも一歩も動き出すことができない』と攻撃的に記していることのほうが恐ろしく感じます。世間の反応を見定めて、どうやったら自分が謎めいた危険な存在でいられるかに、執着を持っている。『反省していない!』等々の声を受け入れるどころか、飛び越えてあざ笑う行動に出ています。この冷静さが恐ろしいです」

 そして、14歳だった同時期、武田さんに、紋切り型社会への反発心を根付かせた重要な出来事がもう一つ起きた。同じ年齢の友達の交通事故死だった。

 小学校4年生の時に、転校した武田さんが、初めて仲良くなった同級生だった。毎日一緒に学校に通い、家に帰ってからも互いの家を訪ねては、共に遊んだ。

 武田さんが、私立中学に進学してから少し距離はできていたが、自転車に乗っていた彼がトラックにはねられ、急死したという知らせを聞いた時、最初は信じられなかった。自分と同世代の友人の初めての死。遺体が戻ってきた自宅を訪ねた。

 「弔問に訪れていた大人が、『彼は頑張って生き切ったんだよ。14歳の人生を全うしたんだよ』と言うのを聞いて、心の中で『ふざけんな』と思ったんですね。『そんなはずはない』、絶対に不本意な死だったに違いないって。今なら、そういう言葉をかけたのは、ご両親を慰めるためだったのだと理解することはできます。でも、その時は、理解できるはずもありませんでした。自分の最も仲が良かった友達の死が、たちまち処理されていくようで、理不尽だと思えてたまらなかった。彼のことは今でも常に頭の中にあります」

 ただでさえ不安定で、社会や大人への反抗心が芽生える14歳の時。神戸の事件や同級生の死という大きな出来事が重なったことは、武田さんの、社会に対する向き合い方に決定的な影響を与えた。

 「若くして死んじゃった子はこうなんだとか、14歳は危険だとか、家族形態がどうだからこうだとか、そうやって虫捕り網でつかまえるように大雑把にくくろうとする働きかけが本当に嫌いになったんです。その時は、なぜ自分がそのことに腹が立つのか、理由もわからなかったけれども、人が人を規定することに対してとにかくむしゃくしゃしていました」

 それ以降、武田さんは社会が押しつけてくる決めつけや常識を疑い、それに徹底的に反発するようになっていく。中学、高校と、キリスト教系の私立学校に通ったが、なかなかなじめなかったキリスト教教育についても、10代らしい反抗を試みた。

 「毎朝、礼拝があったので、ただただ面倒だったというのもあるんですけどね。今思い返すとなんとも青臭いですが、仲間でコント同好会を作って、文化祭でキリスト教をテーマにしたコントを披露したりしていました。旧約聖書で海を割るモーセのエピソードと、新約聖書でイエスが湖を渡るエピソードを組み合わせて、イエスが湖を渡っている最中に、モーセがその湖を割ってしまい、イエスがよろめくというネタ……友達には大ウケだったんですけれども、先生には当然怒られますよね。そういう斜に構えたものの見方というのは、今も昔も全く変わっていないです。当時からの友達は、今の僕が書いている原稿を読んで、『あんときから同じようなこと言ってたな』なんて言ってます。目の前にいる人の考えていることをひっくり返してみたいという気持ちは、ずっと変わらないんですね」

 大学に入ると、ほとんど学校には通わずに、ケーブルテレビの音楽番組やミュージシャンのプロモーションビデオを作る制作会社で、アシスタントディレクターとして働くようになる。音楽は大好きだったが、本を読むのも好きだったし、大勢でものを作るよりは、少人数でものを作る方が性に合うと、就職活動は出版社に絞った。卒業後、老舗出版社の河出書房新社に入社した。

 入社時に配属された営業部から編集部に異動し、雑誌『文藝』の編集担当になった。新人賞の下読みや雑誌作りの基礎を学び、やがてノンフィクションやサブカルチャーの単行本を作る部署に異動になり、社会問題についても本を編集し始める。

 「とにかく何でも自由にやらせてくれる会社でした。その部署に移ったのがちょうど2011年、東日本大震災・原発事故の起きた年でしたし、取り組むべき社会問題を頭に並べながら、どういった著者にどのような方向でお願いすれば鋭く迫るものができるだろうかと企画を立てていくことができました。この期間で取り組んだことが今の仕事にもつながっています」

 この編集者時代、2004年に亡くなったジャーナリスト、本田靖春の足跡をまとめた特集本と単行本未収録集を編集した。

 長いものに巻かれるのを嫌って組織を飛び出し、「吉展ちゃん誘拐事件」では誘拐犯の苦悩の半生に迫り、静岡の温泉立てこもり事件「金嬉老事件」では、犯人の受けた在日朝鮮人への差別意識を見つめた本田靖春。武田さんは、『紋切型社会』の最終章「誰がハッピーになるのですか? 大雑把なつながり」でも、「社会の片隅を見つめる眼識」と、ひとつの物事を見る時にいくつもの方角から見つめる「複眼の精神」を持った「憧れの先人」として掲げた。その態度は、なれ合いの関係と言葉に安住し、丁寧な対話で他者を理解することを放棄する「紋切型社会」とは正反対だと指摘する。

 人の気分をうまいこと操縦する目的を持った言葉ではなく、その場で起きていることを真摯しんしに突き刺すための言葉の存在は常に現代を照射し続ける。いかに言葉と接するべきか、言葉を投じるべきか、変わらぬ態度を教えてくれる。言葉は今現在を躍動させるためにある。(『紋切型社会』最終章より)

 昨年9月、会社を辞めてフリーになった。

 「元々、自分で原稿を書きたいと思う気持ちが強かったですし、それは編集者として作家の真横で仕事を共にする経験を重ねる中で、より強固になっていきました。何度でも繰り返し原稿を直していく中で、原稿にどんどん血が通っていく、そういう場面に立ち会うことができました。逆に言えば、そういう作家の横に『自分もこうやって書いてみたいなぁー』と生半可な気持ちの編集者がいるのは申し訳ないな、とも常々思っていました。これはどこかで断ち切らなければいけないと」

 「いざフリーになってみると、これまで別に何かに拘束されていたわけでもないのですが、解放感があります。でも解放されることによって、そこへ入ってくる意見は直接自分に降りかかってきます。社会時事だけではなくネットで芸能ネタについて書くことも多いですから、異論がより攻撃的に刺さってくることもしばしばです。それを体に刺して『うわー、痛い、痛い』と言いながらも屈することなく、様々な方向に向かって自由に書いていきたいと思っています」

 どこにも属さず、よって立つのは、14歳のあの頃から抱き続けている紋切り型社会への違和感と、先人から教わった世の中への対峙たいじの仕方だ。「砂鉄」はペンネーム。磁石につけて集めている時は楽しいのに、剥がそうとするとこびりつき、うっとうしくてイライラする。人の心をざわつかせる、そんな文章を書きたいという思いを込めた。

(続く)

【略歴】武田砂鉄(たけだ・さてつ)
 1982年、東京都生まれ。大学卒業後、河出書房新社で主に時事問題・ノンフィクション本の編集に携わり、2014年9月からフリーに。インターネットサイト「cakes」「CINRA.NET」「Yahoo!個人」などで連載を持ち、「AERA」「SPA!」「週刊金曜日」など複数の雑誌に寄稿。今年4月、初の著書『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』を出版。同作品は、第25回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞した。ウェブサイトはhttp://www.t-satetsu.com/

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岩永直子(いわなが・なおこ)

1973年、山口県生まれ。1998年読売新聞入社。社会部、医療部を経て、2015年5月からヨミドクター担当(医療部兼務)。同年6月から2017年3月まで編集長。

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